1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

飽きたことに気づく


一生懸命頑張ることは、外から見る分には幸せな感じに見えます。もちろん、当人も夢中なので集中している感覚は心地よいのかもしれません。

しかし、どこかのタイミングで必ず、自分に集中していないというか、頑張る理由を探している状態になってしまう。

僕はそこで、理由を見つけてまた頑張るのではなく、飽きたことにします。そうすることで、立ち止まることができる。

頑張ることはいいことだと僕はずっと思っていましたが、小さい頃ちゃんと頑張っていた時期を思い返すと、実は結構苦しんでいたことに気づきました。小学生の頃、僕は漢字が上手に書けませんでした。精一杯書いて先生に提出しても、きれいに書きましょうと言われるばかり。その時点でどうしようもなく悲しかったけど、何度も練習すればきれいにかけるはずだと思い、宿題ではたくさん書きました。お手本通りの字になるまで、何度も書いては何度も書き直す。それでも納得のいく字にはならず、いつ終わるのだろうと思う。そしたら涙がポロポロ出てきて、でも、もう少しなら上手くできるかも、あと少しかもしれない、だからもっかい消そう。そうやって、毎日ノートをぐしゃぐしゃのしわしわにしていました。

そんなことを続けていくうちに、涙の落とし方が変わってきたのです。涙が最初はなんで出てくるかわからなかったのですが、これはあえて、ノートに涙を落としているのだと気づくようになりました。先生に、頑張りをみせるために。涙の乾いたノートの、ボタンで押したような皺の跡。僕はそれを先生に見せたくて、漢字を書いているのではないかと思うようになりました。

涙が出るのは、当然自分の気持ちがつらいからです。それでも頑張りました。漢字を頑張るのではありません。涙がボロボロ出てくるように、そうやって身体が反応するように頑張っていたのです。でも、その頑張りすらも先生からはよくわかってもらえません。今ならこうやって言葉にできますが、当時はとにかく、涙の跡を残すことが、僕にできる精一杯のことでした。

跡にしたいというのは、後に残したいということです。ページをしわくちゃにすれば、その時の気持ちが残ります。残しておくことで、また戻ってこれる。つらい気持ちもある、少し書けたみたいな嬉しい気持ちもある、頑張ろうみたいな引き締める気持ちもある、そんな複雑な感情が、とどまってくれます。ただしそれは、身体の本気の反応から出た涙があってのことです。身体の反応が、僕を後にしてくれたのです。

飽きるとは、一杯になった感情を、僕ごとバケツに入れておくことなのです。必要になれば、またそのバケツに入ることができるんです。飽きたから、おしまいではないのです。

小学生の頃に戻れたら、漢字を頑張っている僕にこうやって言うこともできたでしょうか。ホントに、頑張ってるのえらいね。ほら、もうバケツに溜まってきたじゃん。このままだとそろそろ溢れてしまいそうだから、もうね、寝ていいんだよ。おやすみなさい。