1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

No.9 公園という最後のホーム〜あろうがなかろうが自由〜

小さい頃、よく遊んだ場所といえば公園です。

公園を通り過ぎると子どもの楽しそうな声が聞こえてきて、懐かしい気持ちになります。

でも、あくまで通り過ぎるだけ。入ることはなくなっていきました。

そこには、大人になったからという諦めというか、別に行かなければいいだけの話ですが、もう立ち入ろうとしない、そんな自分をみつめているところがあります。

 

自分で立ち入り禁止にしているのは、もったいないと思います。

思い出してみれば、公園は別に、子どもだけがいる場所ではありません。犬を散歩する大人や、ジョギングする大人、カップルもいます。

ただ、これら大人は、公園に立ち寄る動機がある人たちです。公園に散歩しにいく、ジョギングの通り道、ちょっとゆっくり話したい、だから公園に寄る人たちです。

別に動機なんてなくていいんだと思います。公園は寄るところです。いてもいなくてもいい場所だから、いかないほうがいいのではなくて、いったほうがいいのです。むしろ、いたほうがいいから、いてもいなくてもいいと思えます。

公園には、ベンチがあります。植物が生えています。水道もあるかもしれません。これらは、別になくてもいいかもしれません。でも、そう考えるのは今目に見えているからです。もし、この世界のありとあらゆる公園に、ベンチというものがなかったら、なくていいとすら考えられないはずです。だから、あったほうがよかったんです。そんなふうに考えることができるからです。そして、考えられることだから、あろうがなかろうが自由です。

公園は、あってもなくてもいい塊が落ちている広場です。そこにふと寄ってきた自分も、その一つになります。ベンチに座っている時は、自分もベンチだし、植物を見ているときは、自分も植物みたいになる。水道の水を流しているときは、自分が水道です。

何もかもがどうでもよくなり、どうでもあるようになります。

そんな場所こそ、本当の自分の居場所ではないでしょうか。だから、公園を通り過ぎるとき、懐かしい気持ちになるのではないでしょうか。

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