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毎日、土日の作り方 第一章:体内時計の速度

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土日48時間分の体内時計


 私たちには、土日があります。それは、平日に仕事がある代わりのご褒美みたいなものです。平日毎日頑張ったのですから、それも人のために全力を注いだのですから、2日間ぐらいは自分のために注いでもいいよね、そんな気持ちを抱かせます。だから、本当にたくさんのことをやりたくなる。
 普段行けないショッピングに行ったり、普段見れない長時間の映画を見たり、普段作る暇がない料理を作ったりします。平日じゃあできないことをたくさんやる。平日には時間がありませんから。時間がある土日にやるしかない。ただもうここで、やれるから、やるしかないというモードに入っていきます。
 やるしかないモードになったのは、時間があると思ったからです。平日よりも時間がある。というより、平日の方が時間が少ない。土日の方が時間がある。そういう、平日の時間量から比較して、土日の時間量を考えています。つまり、土日の時間というのを、丸ごと手に入れて、完全に掌握したかのように捉えている。
 そんな丸ごと土日を、勝手に手に入れたことになっています。もうそんな時間装置があるなら、もう誰でも大喜びでしょう。もらったら使わないと持ったいない。無償でもらえますから。時間が。こんな贅沢はありません。平日働けば、土日48時間分の体内時計が、特典でついてくるのです。

 


48時間分の頭内時計


 時間を手に入れた私たちは自由なのですが、それも束の間の自由です。時間はもらえるが、限りある時間です。だから、使い切ってしまわなくては行けない。48時間もあるのです。寝る時間ももったいない。たくさんとにかくやっておきたい。
 それでいろんなことをやります。そうすると時間を使えていますから、最初の方は気持ちいわけです。うまく使ってるなぁと。平日じゃできないことできてるなぁと。でも、気づいたら夜になってしまう。あれ、まだまだすることあったのに、まだできるかな、あれもしよ、これもしよと、どんどん睡眠を削っていく。
 身体は疲れます。でも気持ちは焦っています。何に焦っているか。時間を使うことにです。でも、身体の方は寝ることに時間を使いたい。それで渋々、ベットに入るのです。頭はまだ寝ることに使いたくない。それかそもそも、頭は基本的には寝たくない。48時間分の体内時計は、身体の中にあったのでなかったのです。それは、頭の中に与えられた、頭内時計だったのです。
 頭内時計は、一定の速度で進んでいきます。1分1秒という国際的な時間単位で針を動かしていきます。私たちは、その針自体を動かすことはできません。音を聞くだけです。カチ、カチ、カチと、否応にも過ぎていく音を。この音が、私たちを寝たくても寝たくない状態にします。では、この音は普段どこで聞いていたのでしょうか。それが、平日です。

 


土日は眼球の有害物質


 平日は、1分1秒という時間通りに動いています。腕時計をつけながらそれを確認しています。それどこか、向き合っているパソコンにも、オフィスの見えるところにも掛け時計がある。休憩時間中に触っているスマホにも、最初の画面は時計です。平日の視野の片隅には、いつでも時計がうつっているのです。
 そんなに時計をみているなら、もう眼球の方にも時計がうつってきておかしくない。目を動かすことは、時計を動かすことになってくる。それくらい、素早く迅速に、眼球を操作して、仕事を点検しなくては行けない。どんな些細なことでも、目にうつることはチェックをするのです。でも時間がないので、気になっても、ジーッと拡大して覗くことは許されない。1秒で、点検するかどうか判断しなくては行けない。
 眼球は高性能なスキャナーです。ピ、ピ、ピっと、スキャンをしまくる。でも、そのときの眼球自体の調子まではスキャンできません。きっともう、すごい熱をもってしまって、ガタガタいい始めているはずなのです。それでも優秀なこの眼球は、視界が揺れ始めたのにもかかわらず、チェックし続けます。
 だから、少しずつ精度は落ちているはずなのです。視野がどんどん狭くなってくる。でも、先ほどの視野など覚えていません。今、次、が重要ですから。前など気にしてたらダメなんです。それが平日の状態であるなら、例えば、土日に行けそうな旅行記事なんて、目に入っただけで有害物質です。土日という埃がついちゃうと、眼球の動きが悪くなってしまう。

 


眼球は頭のガジェット


 平日で働くことは、そうやって、土日に関する情報をどんどん排除していきます。排除していくのは、頭ではありません。目で判断しているのです。だから、考えることもないのです。むしろ平日においては、考えなくてよい、考えない方がいい。
 だから現状、土日のことをちゃんと考える時間は平日にはありません。平日には、仕事を考える時間しかありません。昼休みもスマホをみて、ネット記事をみていますが、ニュースを見た方がいいと思っています。それか、アプリゲームをしたりして、気を紛らわせます。
 もう、眼だけでなく、頭まで、平日にジャックされてしまったのでしょうか。そうでもありません。先ほど、ゲームで気を紛らわせていると言いました。それはつまり、気持ちが中途半端な感じということです。仕事を頑張る気持ちと、そうではない気持ちが一緒になっている感じです。それを、頭は感じ取っています。
 頭は眼球装置の中にあるのではなく、あくまで眼球は、頭のガジェットなのです。目が必要ないということではありません。目をセンサーのように使うことだけに、頭を働かせなくていいということです。頭は眼球の要求以外にも、別の信号をキャッチしているはずです。その信号は、なんかつまんないなってことです。つまんないからアプリゲームします。何がつまんないか。それは、昼休み前までやってたことです。仕事です。

 


頭は洗濯機


 仕事がつまんないと頭で受け取っていても、仕事はしなくてはいけません。お昼はもう終わりです。その時、頭に浮かんでたモヤモヤも、捨ててしまうのです。眼球装置が故障していたのを、修理して、また動くようにするのです。それで、仕事終わりには、疲れたーっといって、眼を抑えます。装置の電源を切りました。
 眼球装置の電源を切ったので、頭はその装置のことを気にしなくてよくなります。仕事帰りには、今日何食べよっかなとか、そんな自分のことを考える余裕が出てきます。金曜の夜だと、その幅がもっと広がります。次は土日だからです。
 頭はフル回転します。もう眼をあんなに動かす必要はありませんから、頭はやっと自由になりました。もういろんなことが出てきます。眼の動きにそれまで拘束されていた分、その反動で、頭はそれまで動かせなった分の動きをします。その作動感は、すごく気持ちいいのです。アイデアが溢れてくること自体は、快感です。
 でもアイデアはほとんどアイデアのままです。頭の動きに身体がついていかないのです。身体はすぐ疲れます。すぐ寝ようとします。頭は寝ようとはしません。身体が頭を眠たくさせるからです。頭はその誘いに抵抗します。ガンガン動きます。その回転があまりにも酷いと、身体は危険を感じて強制的にブレーカーを落とします。ガクッと眠るということです。頭は、洗濯機のような装置なのです。

 


回転すれば空洞ができる


 頭が装置なら、それを落とす身体も装置でしょうか。装置であるためには、電源のオンとオフが必要です。眼球装置なら、眼をセンサーにすることをやめられますし、頭の装置なら、眠るということで考えることはやめられます。では、身体という装置は、電源を切ることができるでしょうか。
 もし、身体の電源を切ってしまうというのなら、それは死ぬということです。眠るのは、頭です。寝ている身体は、休んでいるだけです。温かい日差しで、日向ぼっこしている時のような感覚です。もちろん意識には昇ってきませんが。
 身体はじっと、次の朝に起きれるように待っているのです。息をしているのです。息を整えている。体調を整えている。その整える時間を、頭の装置は知りません。頭はぐるぐる回転するたびに、少しずつ、いろんなところのネジが緩んできます。そのネジを、ちゃんと締め直す時間を取らないと、もっと余計なことを考えてしまいます。
 ネジが緩んだまま、頭を動かし続けると、頭もどんどん冷静に考えなくなっていきます。あれもやろうこれもやろうから、これもあれもできるみたいになってくる。どんどん回転が大きくなってきちゃう。アイデアという洗濯物はどんどん外側にやられて、真ん中がすごく開きます。空洞ができるのです。やることやることはどんどん出てくるが、あれ、結局なにやってるんだっけと、空虚な気持ちになってきます。

 


回る洗濯物は自分の分身


 何をやっているかわからなくなってきても、なんでそんなふうになるかは、動いてしまっているその頭ではわかりません。やろうとすることを意識的に減らせて、回転を下げて、空洞が埋まったとしても、また動かせばその空洞は現れてきてしまいます。
 土日はやりたいことを思いついて自分でやっているのに、なにかいつも違うのです。じゃあ回転を止めればいいか、つまり、考えることをやめればいいかというと、考えないことを考えるしかありませんから、回転はいつも、動いている。そこにも、小さな空洞があるはずです。
 空洞は、頭が動く限り、どこにでも発生するのです。避けられません。自分がやることの意味の理由をずっと辿っていくと、そこには理由はなくなります。自分のやることは、誰かのためでないのです。この、誰かのためではない、誰かのためではない、誰かのためではないと、ずっと考えていくことが、理由です。この理由がないことを、空洞と言っていました。
 誰かのためではないことを自分がしているなら、それはもう自分のため、ということになるでしょうか。でも、その自分が空洞なのです。何かをする起点にある自分に理由がないのです。だから、それでも何かをするということは、全部、演技のようなものなのです。空洞で回るのは、洗濯物という自分の分身です。

 


洗濯物に混ざる感情という洗剤


 自分のすることなすこと全てが演技のようなものだとしたら、かなり絶望的です。何も本当のことがないからです。でも、ここで諦めるのはまだ早いです。自分が土日にしようと思うことは、気持ちよかったはずです。あれもこれもと考えること自体は、楽しかったんじゃないでしょうか。
 だから、土日にしようとすることには、楽しみも一緒だったんです。感情です。演技には、感情が入り込んでいるんです。上っ面な、建前だけで動いているのではありません。金曜日の夜は、確かに楽しかった。この感情は本物です。
 でもこう思う方もいるかもしれません。本物であると思っている感情すら、嘘ではないかと。例えば、人は作り笑いができます。最初のうちは、あー自分作り笑いしてるなーって思って笑い始めますが、そうやって話しているうちに、作ることを意識せずとも笑うようになります。さらに、その自分を意識することなく、自然と笑っていると感じるというふうになる。これだと、笑うという感情も作り物だったということになるかもしれない。
 そうです、感情は作り物です。でも、感情は作られたんです。それは作られる材料があったから生まれたんです。先ほどの例で言うなら、それは作り笑いする前の自分の周りです。そこには、人もいれば、緑もあるかもしれないし、雰囲気ということもあります。自分には周りがあったから、感情は生まれました。それが、演技として出てくる。そしたら今度は、その感情を演技するというふうに固まっていっただけです。洗濯機で回る自分の分身には、感情という洗剤が混ざるのです。

 


洗剤は洗濯物全てに浸透すべき


 土日にしようと思ったことには、楽しみが入っているのですから、実際にも楽しくしたいです。だから、たくさんやっちゃいます。楽しいと思って考えたたくさんのことなのだから、全部やっちゃいたい。
 だから時間が足りません。いつも、感情が時間をサバ読みしてしまうのです。感情から始まったことが、毎回できない。感情は、毎回、時間に裏切られてしまいます。とってもしんどいことです。
 それでも、土日を振り返れば、やりたいことはできているのです。全部ではないだけで。でも、やり足りなかった。これが、しんどいのです。感情は、自分が思いついたことなら、全部やらないと気がすまないのです。
 全部ができなければ、一つできても意味がない。こう判断するのが、感情です。だから、土日にたくさんのことをやっても、何もできていないと思ってしまう。一つでもできないことがあったからです。感情という洗剤は、洗濯物一つ一つに浸透するのがいいのです。

 


流れてきちゃう洗剤


 感情は全部できないといけないと思うのですが、それでは身体が疲れてしまいます。身体ですら、感情は制御できないのです。感情は自分の周りから始まるので、まず接するのは自分の身体です。だから、自分の感情のことは身体が一番わかっているはずなのに。
 なので、興奮していれば寝れません。頭が動きすぎて限界でも、身体はブレーカーを落とせません。液体がどんどん流れてきて、頭は動かさざるを得ない。こういう時は、とにかく液体が流れ終わるのを待つしかありません。興奮が収まるのを待つ。
 けれど、収まった後には、頭に大量のアイデアが残ったままになってしまうんです。そろそろ洗濯機に入る量が限界だなと思ったのに、洗剤が入ってくるせいで、もっと回ってしまう。それで、あ、もっと入るじゃんということで、ガンガン洗濯物を入れちゃったのです。もう終わったら中身がいっぱいです。
 そもそも、なぜ洗濯をしようと思ったのでしょうか。それは、土日に着るために洗ったんです。土日にアイデアを実行したいから、頭を回転させた。では、そこに洗剤が入ってきたのはなぜなんでしょうか。それは、どんな洗剤なんでしょうか。

 


平日から支給される洗剤


 土日にやることを色々考えるのはなぜでしょうか。何を考えているのでしょうか。考えていることは、楽しいことです。楽しそうなことです。嬉しい気持ちです。それをすれば喜ぶ気持ちです。いい香りのする洗剤が、そこで流れてきています。
 その嬉しい洗剤でアイデアが洗われるわけですから、アイデアにいい匂いが染み付いて、アイデアが頭にあること自体が嬉しいことになります。そうして、土日にそのアイデアを着るのです。幸せな気持ちです。匂いが土日中に広がって、土日はバラ色みたいな雰囲気に包まれる。
 幸せな時間としての土日は、そういう空気の一粒一粒から、匂いがパチパチ割れて、いい香りでいっぱいになる時間へと変化していきます。ずっとそこにいたくなるような場所です。変な匂いは入ってこないのです。自分が着たいと思った匂いしか、そこにはありません。
 その匂いは、一体どこで感じるのでしょうか。土日の楽しみは、一体いつ、感じるのでしょうか。それは、土日以外の平日です。仕事の日です。仕事の合間に、これをしたいな、あれをしたいなと思ったりします。それは、その現実から一瞬逃れるための、気を紛らわす香りです。一旦ちょっと考えたら、また、パソコンに向かって頑張ります。つまり、仕事場で考えてしまう土日の楽しみも、平日に向き合い直すためのガス抜きになっているのです。いい匂いがすると思った洗剤は、平日からの支給品でした。

 


洗剤に付いてくるディズニーチケット


 ガス抜きとして土日のことを考えるなら、土日にすることは、平日に仕事をするためのガス抜きです。土日、いい匂いのする部屋になったと思ったら、月曜日になると、はい、終わりということで、無味無臭のオフィスに戻らなくてはいけません。オフィスには匂いがないので、別に嫌ということはありません。仕事場に戻るのに、いいもわるいもない。
 土日にいい匂いを嗅ぐことが、贅沢なのです。あんなに幸せいっぱいの時間が過ごせることが、身に余ることなのです。だから、本当に大事に使いたい。だから、ずっとあの部屋にいていいかどうかなんて、口が滑っても言えない。土日はあくまで、与えられたものだからです。
 土日が与えられたものでしかないなら、自分のものではありません。それでも、48時間なら、そこで自由に遊んでいいよと言われている。だからもう、一生懸命いろんなことやるしかないでしょう。そうすると、一瞬、仕事のことを忘れることはできるのです。平日にあったこと全部を、頭の中で忘れることができる。
 そんな時を忘れさせてくれる土日は、魔法の時間です。ディズニーランドです。ディズニーランドなら、みんな行きたい。だから、お金を貯める。働く。土日に、夢の時間を過ごすために。平日から支給される楽しみという洗剤には、ディズニーチケットが付いているのでした。

 


ディズニーチケットのグレードアップ


 土日の夢の時間を一生懸命過ごすことに、誰もが憧れます。だって、楽しそうですから。周りから、こんなことあんなことしたっていうそんな話を聞かされるだけで、すごく羨ましいのです。
 自分も、もし、そんな時間を過ごせたならなと、平日中、何回も頭がよぎります。まるで、ジェットコースターが登っていくようなワクワク感です。ワクワク感は、もっと高いところに登っていく方がいい。その分、一気に落ちることができるからです。気を抜くためには、気を抜かずに、ギリギリまで頑張った方が、あとが気持ちいい。できるだけ、仕事に一生懸命になった方がいい。
 一生懸命になればなるほどいいのですから、その時間はいつの間にか、平日から土日にまで侵食していきます。土日が始まってから、いきなり息抜きを始めるのはよろしくない。もっと、楽しみは後に取っておいた方がいい。そうすれば、あの、気を失いそうな落差が待っている。もっともっと、頑張った方がいい。頑張って仕事をした方がいい。
 そうすれば、本当にいい土日が待っている。頑張った分だけ、仕事のことを考えた分だけ、土日はちゃんと応えてくれる。だからできるだけ、土日になっても、仕事をしたい。もちろん、平日ではないですから、課題は与えられません。だから、形だけの仕事はありません。ですが、土日のすることなすこと、それらが仕事に役立つかどうか、そういう判断基準が出てきてしまう。ディズニーチケットには、ジェットコースターにすぐ乗れる特典がついています。ただしそれは、仕事のことをいつもどれくらい考えたかによって、グレードアップするのです。

 


ディズニーチケットの駅伝


 仕事のことを土日に考えると言ったのは、当人にとって悪い意味では全くありません。土日にふと、仕事のことを考えてしまう、仕事だる、みたいなことにはなりません。例えば、映画をみても、ショッピングに行っても、小旅行しても、ボーッとした時に考えているのは、来週の仕事でのあの案件はどうしようか、こうしようか、やっぱあれダメだったかな、みたいに考えることです。
 そうやって入れば、誰よりも仕事のことを考えるのですから、平日になったら、仕事のスタートダッシュが早くて、誰よりも先に進むことができます。ディズニーチケットをもらうためには、列に並ぶ必要があるのです。それなら、先頭のほうがいい。1人専用の、あのジェットコースターに乗りたいのです。
 誰よりも早く、仕事をこなしていけば、周りからも認められていきます。仕事ができる人にもなっていきます。仕事のスタートは月曜という同じ時点からとはいえ、そこからダッシュで誰よりも抜きん出ることは、他の人の諦めを誘います。隣の人は、あーもう自分には無理かとなる。そして、自分より頑張っている人に対して、嫉妬したり、尊敬したりするのです。
 周りからは、だんだんと自分の存在が確固たるものになってくるのです。そうやって、自分が先頭で抜きん出ていると感じている時、もう周りには誰もいません。しかし、列の外では、みえない応援が聞こえているのです。このまま、走り続けて!という声が聞こえます。知らない人たちが、声援を送ってくれています。駅伝です。ディズニーチケットを手に入れるのは、自分のためだけじゃない、その応援してくれるみんなのために頑張るんだ。

 


スポンサーとしての会社


 では、そのみんなって誰のことでしょうか。そのみんなのために、自分は頑張るのです。自分が頑張っているのは誰のためでしょうか。隣にいる同僚や上司、部下は、後ろの方でバテて、はぁはぁ言っています。なので、同じ会社の仲間ではありません。ですが、自分はその会社のために頑張っている。だから、応援してくれるみえない数々の声は、会社そのものです。
 走っているその側に張り巡らされるレールには、その会社名がずらっと、何度も反復されるよう並んでいるのです。それをいつも視界の側で捉えながら、前に向かって先頭を走るのです。会社は、先頭を走る人のスポンサーであり続けます。
 会社が直接、自分を応援してくれているのです。だから、他の人よりも給料が高くなる。会社も、自分の仕事ぶりのおかげで、知名度が上がり、ますます、会社名も知られるようになる。レールに書かれた会社名も、最初は手書きだったものが、だんだんいいフォントを使い始め、ロゴまでつくようになっていきます。
 自分がいい走りを見せるたびに、応援の声は強くなってくる。もう、どんどん頑張っちゃいます。もう、何のために走っているのか忘れてしまいました。なんでしたっけ、なんのために働いているのでしたっけ。とりあえず今は、仕事という長距離コースを走っている。でも、その先にどんなゴールが待っていたのでしたっけ。

 


生活していくための足


 自分は今、仕事を走っている。会社からも応援されている。応援の声は、自分の名前を呼んでくれている。でも、それは後ろからしか聞こえてこない。前からは何も聞こえない。誰も呼んでくれていない。だとしたら、自分の足先は、どこへ向いているのか。
 スタートした時は、ゴールに向かって走り始めたのに、今はもう、走ることだけに一生懸命になってしまって、何が何だかわからなくなっている。でも、足は鍛えられたから、今も速度を保って走り続けられる。でも、それだけだ。走ることは、仕事を頑張ることは、別に苦でも楽でもなんでもない。
 もう急に止まれない。止まると、足の筋肉がその重みに耐えられなくなって壊れてしまいそうだ。休憩も、ペットボトルの水だけもらえればいい。走りながら飲む。土日は、自分にとってそんなもんだ。走るエネルギーでしかない。そんな自分が、足を止めてしまったら、きっと頭から転んで、脳震盪かなんかで死んでしまうだろう。仕事をしていない自分は考えられない。
 でも、その自分が仕事でどこへ向かっているのかが、わからない。自分の身体は、走るためだけのものであったか。自分には足がある。これは、生活してくためにお金を稼ぐ足だ。そして、自分には手がある。おや、この手には、何か握りしめているものがある。

 


志望理由のアンダーライン


 自分が仕事をしながら握りしめていたものは、志望動機理由書でした。思えば、自分もこの会社を志望して入ったのでした。当時は、別にどこの会社でもよかったですし、この紙に書いている理由も、ほとんど嘘というか、97%ぐらいは嘘でした。でも、少なくとも3%は、自分のことを入れたのでした。そうしないと、志望理由が書けなかったからです。
 だから、志望理由には一応、自分がこの仕事をスタートし始める前の、向かいたい方向が書かれてあるはずです。そこに書かれてある文字が嘘だらけであっても、どこかの一言に、少し心にジーンとくるような言葉があったはずです。
 そうやって少しでも、その会社で働く理由に自分が関わってないと、ここまで走り続けられなかったはずです。そこに自分がないのなら、途中でめんどくさくなって、別の会社に移ったでしょう。どれだけその会社に入るのが、働くのが嫌だったとしても、選んだんです。自分が選んだ。だから、志望理由書にも、スタートラインが隠れている。
 志望理由のところには、見えないアンダーラインが引かれているのです。そこには、自分がしたかったことが書いてあるのです。それを今は忘れていた。自分がしたかったことは、走り続けることではなかったはずです。走る前に、向いていた方向があったはずです。そこには、冒険に出かける前のようなドキドキが、少しはありました。

 


アンダーラインは点線


 そのドキドキを思い出そうと、志望理由を見返してみる。やっぱり、嘘ばっかり書かれてあります。けれど、ちょっと引っかかる言葉がありました。とりあえず、アンダーライン引いときます。でもそれは、ちょっと抽象的な言葉でした。「人を笑顔にしたい」「人のために役立ちたい」「自分の強みを活かしたい」。
 志望理由には、そんな言葉が書かれていました。確かにそのアンダーラインは、自分が本当に書いたところでした。嘘ではありません。でも、結局、その言葉ってどういう意味なのでしょうか。例えば、人を笑顔にしたいとは、具体的にどういうことなのでしょうか。お仕事上の営業で、お客様が喜んで商品を買ってくれることなのでしょうか。
 その具体例は、お仕事を始めてからのものです。だから、スタートラインに立つ前に、志望動機を書いた時点で、感じていたことではありません。じゃあ、その時実際どんな意味で書いていたのか思い出そうとします。でも、そんなのわからない。覚えていない。というか、そもそもそんなこと考えてこなかった。
 自分が志望したことの意味なんて、わからないのです。わからないから、抽象的な言葉で書くしかなかった。だからこそ、そこから嘘を連ねることができた。漠然としているからです。なんとでも、創作することができます。アンダーラインは、そんなはっきりしていないのです。直線ではなく、点線です。

 


逆走に向かい風


 今仕事をしている自分は、漠然としている自分から始まりました。そうして今は、具体的に仕事をしている自分になっていっている。でも、その仕事上の自分と、仕事を始める前の自分とが、かなり違ってきている。距離ができてきている。
 では、その距離を縮めればいいのでしょうか。単純に、昔のことを思い出すようにすれば、いいのでしょうか。でも、志望動機は、あまりヒントにならないようです。じゃあ、いつの昔のことを思い出せばいいのか。思い出すこと自体が漠然としているのに、そんないついつがわからないとなると、もうどうしようもないのではないか。
 それでも、どうにか過去の自分を思い出したいという場合には、覚悟が必要です。今の仕事とは反対の方向、今ではなく、過去の方に向かわなくてはいけない。今の仕事ではない方向に、自分の気持ちを持っていかなくてはいけない。これまでの応援を振り切って、反対方向に行く。応援の声は、批判の声に変わるかもしれません。それでも、仕事に力を抜いて、自分のことに力を注ぐようにする。
 その勇気があるなら別にそれでいいのですが、結構つらいと思います。もう、仕事はしたくないことなのですから、それを自覚したのですから、それでも、生活のために仕事をしなくちゃいけない。自分がしたいことを探そうとすればするほど、仕事のことを考えるのは嫌になる。コースを逆走しようとすると、向かい風がハンパじゃありません。

 


上がる速度と保つ速度


 仕事のことを頑張るのではなく、自分のことに頑張るのは難しそうです。じゃあ両方頑張るか、それはもう、行ったり来たりするので、大変な労力です。それではもっと気持ちを消耗します。じゃあどうすればいいのか。仕事のことも考えておきたいし、自分のことも考えておきたいのです。
 自分も仕事も両方考えると、中途半端になりそうです。仕事の走る速度も、確実に落ちてきます。そうすると、会社の同僚が追いついてきてしまう。せっかく、ずっと先頭を走っていたのにです。
 さて、ここで問題にしているのは、一体なんでしょうか。自分が追いつかれることなのか、自分が先頭であることなのか。追いつかれる方に問題があるのなら、それは仕事のことを気にしている。じゃあ、先頭であることはどうでしょうか。これも、会社の中で一番でありたいという意味で、仕事を気にしてはいる。
 ですが、これは半分の意味です。もう半分は、仕事をしている自分を気にしているのです。自分のペースです。仕事をどう頑張るかを気にしているのではなく、仕事を頑張っている自分がどうそのペースを維持していくのかを気にしているのです。走ることは、仕事という速度を上げることだけではありません。速度は保って、自分のことも考えるという余力を残しておく可能性もあるのです。

 

*第二章は、今週掲載予定です