毎日、土日の作り方 第四章:待っている巣
- 蜘蛛の巣を作る
- 足が10本の蜘蛛
- 網に掛からないもの
- 時間の網
- 時計の網が緩む時間
- 葉っぱを掬う
- 水流から掬う
- 葉っぱは滝から落ち戻る
- 川に刺したヤリ
- 夢の断片
- 自分の世界
- ずっと減らない作り置き
- ずっと眺めていたい世界
- 仕事の時に思う世界
- 生活の時に思う世界
- 自分自身の世界
- 世界と明日の接点
- 気になりに歩こう
- 歩いたあとにできる道
- 土日は待っている
蜘蛛の巣を作る
平日中、仕事は次から次へと入ってきます。一つの仕事が終われば、必ず次が待っている。早く終わらせば終わらすほど、次の仕事がやってくるのも早くなる。仕事は、無限にある。だけれど、どこまでも働くことはできないから、出勤時間を決めて、なんとか頭を休めている。
仕事では、頭をフル回転させなければいけません。頭の回転が速い人がいい。問題が起きても、すぐ解決策を出せるような人が、仕事のできる人です。そういう人は、同時並行で仕事をこなします。
本当は同時並行なんてできるはずありませんが、これは、仕事を自分が担当する範囲までやって、残りを別の人に渡すということです。そして、その人がその仕事をしている間、別の仕事をする。そしたら、渡していた仕事が返ってくるので、その続きをする。
仕事のできる人は、複数の間の仕事を行き来できるということです。仕事から仕事へぴょんぴょん飛び移っている。だから、仕事であちこち飛び回っている人、パソコンでメールをあちこちにやり取りしている人は、仕事ができるようにみえます。仕事をするとは、蜘蛛の巣を作るみたいなものです。
足が10本の蜘蛛
仕事であちこちに網を張り巡らしているので、忙しい。一度つながれば、それでいいのではありません。糸は時間と共に細くなっていきます。何回も、連絡をしなければいけません。糸は、あらゆる方向に絶えず張り続けなければいけない。頑張るということです。
手は絶えず動かさなくてはいけません。頭より手を動かす。迷って沈黙している暇はありません。手の指が四方に広がっているのに合わせて、頭も広げていきます。頭が手を制御することはよろしくない。手が頭を制御する。
なので、パソコンは早く打てなくてはいけません。指を、キーボードという網にタッチさせながら、絶えず、文章に張りを持たせておく。思考は、手の連打によって画面上に出てくる。頭で考えなくていいのです。
手は頭を抱えるためにあるのではない。キーボードに置いておくためにあります。蜘蛛の巣があるのに、そこに蜘蛛がいなかったらおかしいのと同じです。それに、蜘蛛の足は8本ですが、人間は両手を合わせて10本です。通常の蜘蛛よりもっと早く、動くことができる。
網に掛からないもの
とにかく、仕事というのは手が離せないものなのです。そんな時、頭にふと、仕事に関係のない独り言がやってきます。営業先の名前だったり、最近読んだ本の名前だったり、食べ物の名前だったり、取り止めのないものがやってくる。
その独り言は、仕事の網に引っ掛かりません。仕事に加えなくていいことです。ですが、頭では確かに浮かんでいる。その意味はすぐにはわからないけれど。文字だけが頭に残る。
その言葉を考えるには、地面に落ちていったその言葉を拾いに行けません。時間がかかります。キーボードから手を離して、頭に手を当てて見なくてはいけない。なんでそんなことを考えていたのかと。
でもそんなことをしていると、今度は、なんでそんなことを考えているのか、という言い方に変わってくる。そして、仕事の網にすでに引っかかっているエサに気づきます。あのまま放っておくと逃げられてしまう。急いで、キーボードに向かいます。
時間の網
仕事では、網を張っていて、自分はその上を自由に動くことができる。そこに引っかかる案件というエサに、敏感に反応でき、すぐ対応することができる。しかし、その網から離れた途端に、その網に戻ることを要求される。
何に要求されるのか。それは、仕事という時間です。時計の針が進むたび、仕事の網にエサが引っかかる。仕事が入ってくる。その度に、手は仕事に取り掛からなければならない。仕事の網の背後には、時間の網が張り巡らされてるのです。
だから、仕事に関係のない余計なことはできない。ボーッとすることはできません。なんのために出勤しているんだと、言われるからです。言われなくても、そう思うからです。1分1秒、自分は時計の上に座っている。
どんなに疲れていても、無理にでも手を動かすことが必要です。頭は、手に支配されています。頭は手によって絞り出される。それに、パソコンの画面が後押ししてくる。文字バーの点滅、早く、早く、仕事をしろと、訴えかけてくる。
時計の網が緩む時間
時間の上に立つ仕事では、手を絶えず動かす必要がある。手が止まるようなことがあってはいけない。考えるよりも手の動き。そんな仕事では、ボーッとすることはできません。
ですが、そもそもボーッとする必要はあるのでしょうか。平日にいる限り、土日のようになってはいけません。基本、仕事はずっとしなければならない。ですが、そこから一旦離れる時間があります。お昼休みです。
お昼休みの少しの時間、ふいに浮かんだ言葉について、考えてみるのはどうでしょうか。この時間は、平日の中にある休みの時間です。土日ほど気は休まりませんが、一瞬の安堵感はある。
水曜日が、平日と土日の間のような日であるのと似て、お昼休みは、仕事と休みの間にある時間です。こういうときに、興味のあることをちょっと考えてみる。それが、土日へ向かう姿勢作りになっていきます。12時から13時までの間は、時計の網が緩み、地面に落ちた言葉を拾える時間になる。
葉っぱを掬う
お昼休みに、興味のあることを考えたい。それがひいては、土日にすることにつながっていければいいのですが、まず考えるためには、その余計な言葉を、覚えておかなくてはいけない。
仕事に忙殺される中、仕事に関係のない言葉を覚えておくのは結構難しいことです。多くの情報に晒される中、そんな些細な情報で、意味のない情報に構っている暇はありません。情報は、頭の中ですぐ洪水になり、こぼれ落ちて流れていってしまう。
なので、忘れないようにする必要がある。あとで思い出せるようにする必要がある。僕は、メモをするようにしています。思いついたことは、どんなことだろうが、ささっと書き留めておく。流れ落ちる情報の中で、大事な言の葉だけは掬っておくのです。
やり方はなんでも構わないと思います。パソコンのメモ機能でも、手元にある紙のメモでも、付箋でも。スマホでもいいかもしれません。ポイントは、いつでも見返せるようにしておくことです。掬った葉っぱは、目に入るところに飾っておきます。
水流から掬う
ただ、メモを置いておくと、その言葉が気になって、逆に仕事に集中できな口なるのではないかと思う方もいらっしゃいます。ですが、僕はむしろ反対で、メモをすることで、ちゃんと仕事に集中できるようになる。
一度、その言葉が浮かんで、メモをし損ねると、たびたび、同じ言葉が出てきます。営業先の名前が出てきて、メモしてなかったら、また、少し時間が経ってから同じ名前が出てきてしまう。それは煩わしい。
ですが、浮かんだ瞬間に気づいて、メモをしてしまえば、もう同じ言葉は出てきません。不思議なことに、頭に浮かんだ言葉を言語化して視覚化してしまえば、もう再び現れてくることがないのです。
メモをするというのは、頭の言葉を言語にするということです。言語は、コミュニケーションで使います。つまり、それを使って人に意味を伝えることができる。言語は、その意味を運びます。人の間を行き来するのです。人の中にあるのではない。人の外にあるものです。だから、言葉を言語することは、自分から外に出すことなのです。だから、頭の中には同じものが出てこない。掬えなかった葉っぱは、水流を回って何度も何度もやってくる。それを掬って、仕事の流れから取り出さないといけない。
葉っぱは滝から落ち戻る
言葉を外に出すことで、頭はスッキリします。気になるものがなくなったからです。仕事の時間の中に紛れ込んだ得体の知れないものをもうみることがなくなった。とりあえずそれがどんな言語なのかはわかった。
だから、それ以上のことはとりあえず考えなくていいと落ち着かせることができます。むしろ、その言葉を一度無視してしまうのと落ち着かない。そわそわするほどではありませんが、微妙な不安感が漏れてくる。脳の奥がムズムズする感じです。
そのムズムズは、かゆいのに手の届かないところにある。細かい静電気が、頭蓋骨の裏でチリチリしている感じです。血管の中に言葉の血球が紛れ込んでいて、管にコチコチと擦れていく。
喉に引っかかる感じではありません。そんなふうに、言葉がはっきり感じられるのではない。あくまで見逃してしまうのです。じっと捉えているのではない。捉え損ねた結果、どこかへ流れていき、見えなくなってしまう。けれど、その言葉は回って存在している。水流に乗った葉っぱは、一度滝から落ちた。だけれど、その流れはまた上流につながっているのです。
川に刺したヤリ
無限ループする言葉には、現れるタイミングがあるのです。それをしっかり、言語で刺して、置いておきます。それでようやく仕事に戻れる。目をパソコンに戻すことができます。
仕事は、さっきよりもスムーズになります。頭の通りがよくなったからです。パソコンのキーボードを打つ音が流れよく聞こえ、仕事を進めるリズムになっていく。落ち着いて、仕事に向かえる。
忘れることは、全く怖いことではありません。よく、思い出せないことがあるとやばーって思うことがあるかもしれませんが、それは思い出す必要があるから不安になる。今話しているのは、思い出す必要のない場合です。自分の心の声としての言葉は、思い出そうとする以前に、勝手に思い出される。頭に浮かんでくる。だから、忘れたいのです。覚えたいのではない。忘れるために、言語にする。
こうやってカタチにして、積極的に忘れることは、忘れ切らないという安心感ももたらします。頭の中にある言葉の段階では、すぐ現れてはすぐ消えてしまう、川を流れる魚のような存在だったのが、言語という外にみえる物になったことで、自分の視野の一部になった。それは、いつでも見返すことのできる、インテリアのようになったのです。言語というヤリで、魚を刺す。そのヤリの持ち手が、川の表面からとび出ている。その魚を食べたければ、いつでもヤリの先にある状態です。
夢の断片
仕事のお昼休み、あるいは仕事の帰り道。仕事から解放されるひと時が訪れます。この時間になれば、特に誰も何も言ってくることはありません。そういう時に、自分がメモをしたことをみてみる。
僕であれば、メモはいつもスマホにしていますので、手軽にみることができます。何を考えていたのかなーと、とりあえず眺めてみる。日によって多い時も、少ない時もありますが、メモに慣れてくれば、毎日一つ以上のことは書くという具合になってくる。
その言葉を見ると、だいたい意味はわかりません。とにかく浮かんだことをメモしているだけだからです。ですが、みていると少しワクワクする。まるで、自分が考えていないような感じがしてくる。
メモは仕事の合間にします。ささっとメモって、その言葉に耽ることなく、仕事に戻る。なので、そのメモを取った時の思考の時間は、すごく短い。反対に、仕事の時間は膨大です。なので、メモした時の自分の状態はあまり覚えていない。むしろ、仕事の時間で体感が埋め尽くされている。そういう状態で、ふと、メモした一瞬を思い返すと、なんだか違う自分がそこにいたかのような感覚になってくる。朝起きて、夢の断片が微かに匂ってくるような、儚い感じがあります。
自分の世界
メモしたことには、微量な感情が伴っている。仕事では味わえない、遠くの霧隠れた景色をみるような情景が、帯びている。その感慨を頼りに、今度はその言語から何が連想されるかをさらに言語化していく。
メモした言葉が一つだけであれば、その言語の熱みたいなものを感じに食いかもしれません。ですが、二つ、三つ、四つと増えてくれば、熱の違いみたいなものがわかります。「この言葉が、他のと比べて気になるなー」という気持ちです。
気になる言葉をみつけたら、何が気になるのか、考えてみます。この時、まずはじっとその言語をみつめること。その言語の意味を考えようとしないことです。そうやって落ち着いた頭の中から、次の言葉が出てくるのを待つのです。何も出てこないのなら、「何も出てこない」という言語を付け足す。頭の中の言葉は、それくらい素直な輪郭を持っています。
メモした言葉によって、そこからいろいろ出てくる度合いが違ってくると思います。全く思いつかないもの、そこからするするいろんなことが連想されてくるもの、様々です。特に、連想されていくととっても楽しい。霧隠れしていた情景が、少しずつ晴れてくる。夢が戻ってくる。夢の世界では、その一部一部全てが、いとおしいものになってくる。自分の世界に分け入っていきます。
ずっと減らない作り置き
言語には、その言葉を介して、自分の世界が入っています。畳み込まれている。その重なり度合いが、熱の度合いとなって現れています。熱の高いものほど、言語の周りがガタガタ揺れています。今にも、中から世界を跳ねさせたい、そんな気持ちがわかってくる。
言語は、箱のようなものです。一つの言語が、一つの箱です。だから、メモの数分、箱を作ったことになる。そしてその箱は全て、びっくり箱です。全てに、世界が入っている。自分がこれから想像していく世界がです。
そうやって、世界づくりをしていくことが、言葉を付け足していくことです。もちろん、言葉を羅列していけば、まとめていく必要も出てきますし、他の言語とくっつく可能性もあります。そういう時は、言葉を要約したり、思い切って箱を一つにしてしまったりする。そうやって、収まりのいい世界を作り置きしておく。
一度作ってしまった世界は、便利なことに、また入ることができます。その日もう仕事で疲れて、言葉を付け足す暇がなくても、また明日、時間がある時に眺めればいい。言語には、その時の情感がちゃんと残っています。それがわかっているから、その言葉が気にならず、仕事にも集中できたのです。ですので、暇がある時に、その言語をみて、少しずつ、自分の世界を輪郭づけていくことができます。自分の世界は、ずっと減らない作り置きなのです。
ずっと眺めていたい世界
メモにはどんなことでも書きます。仕事中に浮かぶ度、書くようにしています。常にスマホにメモをするので、いつでも手元にある状態にしておける。パソコンを打っているとき、外に出て少し歩いている時など、メモをする瞬間はふいに訪れます。
言葉はなんとなしに出てきますから、別にその意味がすぐわかるわけではありません。なので、その言葉が自分にとってどれくらい重要かもわからない。とにかく、自分の声を言語にすることをささっとやってしまう。
メモした言葉が、実際に重要だとわかるのは、言葉にどれくらい豊かな付け足しができていくかです。たとえば、僕のメモには袋ラーメンについてのメモと、スコーンについてのメモがあります。袋ラーメンの方は、その種類ごとに、食べた時の麺の感じとかスープの感じを付け加えています。対してスコーンの方は、自分で作るときの配合材料とその出来栄えを付け加えている。量で比べてみると、袋ラーメンのメモの方が圧倒的です。なおかつ、項目ごとに整理されている。なので、僕にとって重要になってきているのは、袋ラーメンの方です。
ただ、何が豊かであるかを決めるのは、個人の問題です。単に言葉の量が多いなどを基準にしない人もいると思います。人によっては、量は多くなくとも、しょっちゅうのぞいている言葉の方に、重きを感じる人もいるでしょう。ただ、内容が豊かな時の基準は、言葉に綴られた内容をみた時の、満足感です。いろんな自分の世界がある中で、ずっと眺めていたい、そんな気持ちになるところが、豊かなのです。
仕事の時に思う世界
どの言葉から、豊かな世界が生まれていくかは、付け足していく中でわかっていきます。なので、メモをするとき、毎回毎回、新しく始まる予感がして、僕なんかはちょっぴりワクワクしながらメモをする。メモにしてしまえば、それがどんな言葉でも嬉しいのです。
ここで、僕がどういったことをメモするか、参考程度に話したいと思います。一つ目は、仕事の時に思うこと、です。「昨日眠れなかった〜」とか、「挨拶を元気よくするには?」とか、「営業先でのPRの仕方」とか、そういった言葉たちが並びます。
「昨日眠れなかった〜」というところには、いろいろ付け足しがあります。「なぜ眠れなかったのか」、「何か考えていたのか」、「仕事のことを考えていた」、「〇〇の案件をどう片付ければいいのかわからなかった」、、、みたいに拡がっていきます。
これらの言葉は、「昨日眠れなかった〜」という言葉を日毎に何回かのぞき、そこから少しずつ連想されたことです。これからまた見返せば、「自分で解決しようとしていた」、「上司に聞けばいいかもしれない」、というふうに付け加えられていくかもしれません。
生活の時に思う世界
二つ目は、生活の時に思うことです。仕事をしている以外の時間のことです。仕事の合間のお昼休みとか、仕事帰りとか、家に帰って料理している時など、仕事に結びつかないことを考えている時です。
たとえば僕であると、さっきの例にも出てきた、「袋ラーメン」のこととか、「読んだ本の感想」とか、「野宿する計画」とかを並べています。これらは、仕事以外の時間に、実際に関連したことをやっているときに浮かんでくることが多いです。
「袋ラーメン」を例にします。最初、これのメモを始めたきっかけは、文字通り、袋ラーメンを買って食べた時です。袋ラーメンって種類豊富だし、手軽にいろいろ試せて楽しい。そうやって食べていって、種類ごとに、麺の感じや、スープの感じをメモしていくのが面白そうだなと思ったのです。
例えば、「麺の感じ」の項目には、次のように、種類ごとにメモが付け加わっています。「うまかっちゃん、柔らかくてソフトな食感」、「わかめラーメン、少し硬めの食感」、「きんちゃんラーメン、ホワホワで優しい食感」、のように書いてある。こうやってメモをしておけば、友だちにオススメする時の参考にもなります。
自分自身の世界
三つ目は、自分自身のことについてです。仕事の時でも生活の時でも浮かぶことですが、自分自身をどう考えるかについて、いろいろ浮かんできます。仕事での自分でも、生活での自分でもありません。もっと漠然とした自分です。
例えば、「人とうまく話せない」とか、「自分はモテない」とか、「自分はモノを覚えられない」とか、だいたい、できないという否定の形で出てきます。仕事や生活でもできないことは出てきますが、そのできないは、営業先に自分をPRできないとか、洗濯物をうまく畳めないとか、そういった具体的な文脈に置かれています。ここでのできないは、具体的ではない、抽象的な世界にあることです。
「人とうまく話せない」ということを取り上げてみます。このメモの付け足しには、次のようなことが続いている。「話せないとは何か」「喉を動かすこと」「喉が詰まってしまう」「それはなぜか」「緊張するから」「自分は人に会うと緊張してしまう」「しかし、緊張とは何か」「ここには不安という気持ちもある」「人と話すのが怖いのか」、等々、何か哲学っぽい感じになっているようです。
ここでの連想は、できないことから出発しますから、少ししんどいかもしれません。できないにできないを重ねていくので、基本的には自分を追い詰めることになる。自分に厳しい世界です。ですが、そうやって頭の中を鍛える感覚は、少し気持ちいいのかもしれません。
世界と明日の接点
こうやって、捉えた言葉をきっかけに、さまざまに連想していきます。先ほどは、仕事の時、生活の時、自分自身についてというふうに、三つに分けて話しましたが、実際にその区別は曖昧になったりします。説明のために便宜的に用意したものですので、参考程度にしていただければと思います。
大事なのは、言葉を毎日眺めて、少しずつ、付け加えていくことです。連想してくことが重要です。その言葉を見た時に、自分に浮かんだ次の声を、ゆっくりと、ときにははやく、拾い上げていくことをしていってください。
では、いったいいつまで拾い上げていくのがいいのでしょうか。連想していけば、言葉の数は増えていく。際限なく増加していくと、ごちゃごちゃになってしまう。そうなると、見るのが嫌になってしまいます。だから時々、項目ごとに整理していくのですが、では、整理しながら、何に至ればいいのか。
それは、自分が興味のあることが出てくるまでです。例えば、先ほどの自分自身にまつわる「人と話すのが怖いのか」を続けていくと、「人が怖いのか」「怖いのは何か」「その人の視線か」「視線とは何か」「視線はどうなっているか」「目を合わせる/合わせない」「目を合わせて話すこと」「目を合わさないで話すこと」「目を見ないで話してみる」、というふうに連想していく。そして僕は、この最後の「目を見ないで話してみる」という言葉に至りました。これが、興味のあることです。自分ができそうで、明日からやってみようと思えること、実際に試すことができそうなこと、これが興味のあることになります。自分の世界と、明日の現実の接点に立つのです。
気になりに歩こう
連想のゴールは、明日に立つこと、連想のスタートは、普段の暮らしの中で浮かんだ言葉です。では、このスタートとゴールの間はどうつないでいけばいいのでしょうか。
繰り返しになりますが、毎日眺めるということが一つです。言葉をメモしても、その日に何も思い浮かばなければそれでいいです。「何も浮かばない」と付け加えておきます。そしたら、次の日にまた眺めるだけです。ポイントは、言葉をみて、絶えず自分の音に耳を澄まそうとすることです。
そしてもう一つが、どうなっているかを観点にしながら連想していくということです。先ほどの例でいうと、「視線とは何か」「視線はどうなっているか」の後に、「目を合わせる/合わせない」というふうに続けました。つまり、視線という言葉の意味を、僕の経験でいうとどんな言葉に言い換えられるかをみていったんです。
注意されたいのは、どうなっているかは、どうあるべきか・どうするべきかとは異なるということです。後者の観点だと、「視線とは何か」の後に、「視線は捕らわれるもの」「視線から逃げるべきだ」、「しかし視線はいつもつきまとう」というふうに、より不可能な状況に状況に自分をもっていってしまう。いつまで経っても、明日に試そうと思うようなことは出てきません。それではしんどい。連想がしんどいのは嫌です。連想は楽しくあって欲しい。散歩するとき、毎日何歩歩くとかって決めてると楽しくないです。ちょっと寄り道するぐらいの心持ちで、今日はこの道が気になる風にしておくのが楽しいです。連想は、気になりに歩こうとすることです。
歩いたあとにできる道
連想を拡げていく様は、暖かい陽気に包まれながら、散歩するのと同じなのです。散歩は、一歩一歩というより、ふらふらというより、トントンと歩いていきます。足のおもむくままにただ進んでいく。
歩く道も、どう行きたいかははっきりはしておらず、なんとなくこっち〜という感じで、気分に乗って動きます。もちろん、それで家に帰って来れなくなっては大変ですから、家との距離はなんとなく把握している。
連想で出てくる言葉は、前の言葉を書いてみないと出てきません。そうやって出てきた言葉も、前の言葉を書く段階でははっきりしてきません。気分で書いているからです。ですが、寄り道しすぎることもありません。最初の言葉から逸脱してくる度合いは、見え返すたびにわかってきます。
散歩は、旅ではありません。遠からず家に戻ってきます。その後、家で何かを始めます。連想も、それが終わった後、何かを始めます。することが思いつくのです。連想が終わるのは、連想しなくてよくなったからです。現実に向けて、何かを動かそうと思ったからです。歩いたあとに、道はできます。
土日は待っている
連想で至った自分事は、仕事とは異なります。人から与えられたものではありません。することは、人から言われていません。最初に思いついたことから、最後のすることに至るまで、それは自分の声とのやりとりで作られてきました。
自分で考えていったということです。自分の気持ちのおもむくように、言葉を探っていきました。それを探す過程で、ほとんど焦りはありません。急ぐことは不要です。仕事ではないのですから。
自分のペースで、歩いていったのです。だから、ここで進んでいるのは、仕事よりももっと特別なことです。平日のせわしさとは別のものです。もっと、穏やかなこと。ゆっくりだが、確かに進んでいるという感覚。これが、土日へ向かっている姿勢です。
平日でも、暇さえあれば、自分のメモを見ます。そこには、誰も伺い知れない、自分すらもどうなっていくかわからない、言葉の数々があります。そしてその数分の、自分の世界がある。そしてその世界は、明日の現実に向かって進みつつある。だから、見返すたびに、浮かぶ言葉が違ってくるのです。それは、言葉を介して、土日の姿勢が作られているからです。最浮かんだ声を最初に拾い上げた時から、土日はいつでも、自分たちを待っています。
*第五章は、来週に掲載予定です。