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毎日、土日の作り方 第六章:土日の痒み

           

 

スタートダッシュしてしまう自分

 この文章は、土日をうまく過ごすために書かれたものでした。僕にとって土日は、忙しく、気の抜けない時間でした。あれこれ次々やっていってしまう。でも、計画通りに全然行かない。それで、そんな自分を責めて、疲れたまま平日を迎える。
 平日はあっという間です。振り返ると早いというのも平日の特徴。そしたらすぐ土日が来る。それでまた、嬉しくなって、同じ失敗を繰り返す。なぜこんなにうまく行かないのか。それは、土日ですら焦っている気持ちがあったからです。仕事すらないのに、焦っていた。
 何に焦っていたかと言えば、それはやはり、やることをしていない自分がいることでした。土日ですから、やることは自分で決めています。でも、決めた後は、急に主語がなくなって、自分を棚の上に上げてしまう。それで、やることをあたかも仕事みたいに与えられたこととして受け取ってしまい、なぜできなかったんだと自分を責めてしまっていた。
 問題は、することを決めた自分を忘れてしまうことでした。自分が行動する前に、自分が何を決めていたのかを忘れてしまっていた。だから、いつでも思い出せるように、文字のリストにすることにしたのです。書いた文字には、その時決めた自分というのが残っている。だから、メモリストを作っては見返すことで、決めた自分と相談しながら、土日に動く自分を方向づけたかった。スタートダッシュしてしまう自分に、土日のコース距離を教えなければいけなかった。


あえて遅らすスタート

 こうして、土日に何をしようか、メモをする日々が始まりました。まず気づいたことは、文字にすることで頭がスッキリすることでした。そして、目の前に、何も考えずスタートダッシュをしようとしている自分が感じられて、少しその気持ちから離れて、横目で見れた。
 さらにメモを続けていくと、別に土日にすること以外のことも、メモをするようになっていきました。頭の中に浮かんでは消えていく泡のような言葉は、視覚化しないと忘れていくようなものばかりでした。視覚化しても忘れるのは同じですが、文字にすれば、後で見返すことができる。そうするとそこには、実は忘れていた自分というのも感じることができる。
 こうしてメモすることは、自分が仕事以外で考えること全部になっていき、それは、自分を知っていくことと表裏一体になっていきました。メモに慣れてくれば、どんどん言葉も増えていく。それは、自分が増えていくような感覚で、とっても楽しかった。
 項目ごとで深掘りできるほど、そこでの自分は動いている感じがしました。何か、シュミレーションをしている感じです。つまり、場所を想定している。どこかで動いている。だからそれは、最終的に、自分が具体的にする事項を生んでいきました。そうしてそれらの事項が、土日にすることになっていったのです。スタートをあえて遅らす方が、どうやって走るか確認できます。


開けきれないほどの宝の山

 メモをしていければ、項目ごとに、土日にすることにつながってくる。なので、最初のメモする内容は、いきなり土日にすることじゃなくたっていいのです。自分が思い浮かぶことだったら、なんでもいい。ただ、仕事をするようなことだけは、土日にしたくない。だから、仕事以外のことをメモする。ポイントは、すぐには意味がわからないということでした。仕事に関係のある名前でも、その意味がわからないのであれば、一度はメモをしてみるのがいいのです。
 そうやって意味のわからないメモが増えていけば行くほど、知らない自分も増えてくる。これからそのメモを見返すたびに、なんで自分こんなのメモしたのかなーって思うわけです。そこから、連想を働かせて言葉を付け加えていってみる。そうすると、予想外の自分が出てくるのです。
 不明な自分の中に明らかな自分が出てくる時ほど、嬉しいことはありません。だから僕の場合、メモはよくわからないことだらけです。これをメモして何になるんだということばかりです。でもその分、その度合いが大きくなる分、僕は知らない自分と出会うことができる可能性が高くなる。
 宝の山が増えていくような感じです。まだたくさん眠っていますが。その分、期待も膨らみ続ける。むしろ、宝の山は宝の山のままの方がいいのではないかとさえ思ってしまう。もちろん、気にあるので開けてしまいますが。ただそれでも、一度に開けきれないほどあるというのが、僕の幸せでもあります。


埃の山になっていく宝の山

 メモにはたくさんの分からない自分がいる。とっても気になるわけです。休みの時間があれば、とにかく全てを見返したくなる。でも、休み時間には限りがあります。それで寝るのが遅くなって、仕事に支障が出るのは元の子もない。
 ピックアップして、優先順位をつけてなんとか工夫しようとしても、やっぱり納得がいかない。全部を深掘りしたくて、でも絶対そんなのできなかったので、どうしようもなく落ち込む時がある。
 何に落ち込むかというと、まずピックアップされなかった項目があったということです。そこには、そもそも今日には取り上げられなかった自分がいる。それだけで僕はかわいそうだと思ってしまう。もしかしたら、見て欲しかったのかもしれないのに、そう感じてつらい。
 さらに、優先順位をつけて最後の方になった項目が、結局手をつけられなかった時です。この項目たちは、選ばれたのにもかかわらず、最後の最後で無視されてしまう。また明日から、優先順位を付け直されるので、振り出しに戻ってしまいます。これもつらい。こうして、宝の山の一部は、埃の山になっていく。


永遠のモグラ叩き

 新しい項目を言葉にできるたびに、自分を見つけていくのがすごく楽しいかった反面、別の項目では、そこに言葉を加えて、確からしい自分にしていくことが毎日できない。自分を見つけたのに、自分を取り逃がしてしまう。
 これが毎日続くと、自分が不安定な状態になる。どこのかの自分に言葉を尽くしていくことは、他の自分に言葉を尽くせないことになるからです。自分は一方では満たされて、もう一方では満たされることがない。自分は二つに分裂してしまいそうになる。
 そうすると、その分裂する自分が嫌になってしまう。バランスが取れない自分が、です。新しい項目や、不足している項目を見たくなくなるのではなりません。そういうことが両立している中途半端なメモの状態が、自分のアンバランスさをうつしているように思えてしまう。
 だから、そんなメモの状態でいること自体が嫌になってくる。ただ、メモを取ることはできます。僕が嫌なのはリストの様子であって、リストができるメモ取りのことではないからです。でもそうしていくことで、自分というリストにどんどん穴ボコができていってしまうのです。あっちを埋めたらこっちを埋めなくてはいけない、永遠のモグラ叩き状態です。


モグラ叩きの高速化

 埋めることのできない項目がある毎日。そういう毎日を暮らしてしまっている自分。この自分が嫌になるということは、毎日が嫌になることにつながります。
 仕事のある平日が嫌という感情とはまた違います。めんどくさいではなくて、つまらないのでもなく、もどかしいということに近い。メモをすること自体は別にめんどくさくない、楽しいことです。リストがたくさんになっていくこともつまらなくない、面白いことです。しかし、そのリスト自体を上手く扱えない、これがもどかしい、そういう毎日が嫌なのです。
 今、リスト全体を気にしているわけです。リストにあるすべての項目について、なんとか言葉を付け加えたいと思っている。けれど時間がない。でもやろうとする。
 そうすると、項目ごとの深掘り時間が減っていきます。代わりに、リスト全体を見ると、全体的に底上げされた感じに見える。これでようやく満足できるということになってくる。モグラを叩く手を、打力が弱くなる分、高速で動かすようにしたのです。


モグラタッチ

 すべての項目を押さえようとすると、以上のように言葉数が少なくなってくる。それでまだ続けられるのならいいのですが、もっと項目数が増えることになると、言葉を使うのがしんどくなってくる。
 本来、言葉を付け加えていくというのは、自分がすることへ向かうよう、具体的な方向性を持つものです。でも、早く埋めようとすればするほど、深く入ることができなくなってくる。いい連想ができなくなっていくのです。
 どうなっていくかの観点で連想していくためには、自分の声に耳を澄ます必要があります。ここに必要な沈黙、これが取れなくなってくる。さっと、なんか声が聞こえたなと思ったら、テキトーに言葉をあしらって、次の項目に行ってしまう。
 言葉は、どんどん漠然としてくる。例えば、「昨日眠れなかった」という項目に、これまでだと「いつも何時に寝るの調べてみる」と具体的に書いていたのが、「今日の眠れなかったー」とかになってくる。付け加えることだけが目的になってしまうのです。モグラ叩きだったはずが、もうモグラタッチになってしまう。


真っ黒な穴の集合

 手早くやれば、リストの項目ごとの文字は増えていく。しかし、そこに増えているのは文字だけです。具体さに向かえていない。意味がずっと出てこない。
 意味がない言葉は、最初の項目だけでいいのです。むしろ、最初は意味がない方がいい。だけれど、ずっと意味がない言葉が続いてくと、空っぽなまま、その項目を放置してしまう。
 空っぽな言葉が並んでいくと、その項目が怖くなっていきます。単純に文字が反復されるようになっていきますから、同じ文字がずっと並んでいる。増えているのに、何も増えてすらいない。むしろ、何か固まってきている。
 何が固まってきたのか。それは、不安です。項目の文字が反復されるのは、その項目に残った自分が、消えてしまわないか不安だからです。今にも、発見した自分がなくなってしまいそうだから、その発見自体をただ再現するのです。だから、付け加える言葉も最初の言葉とあまり変わらないものになってくる。モグラ叩きは、今や出てきたモグラに触れる遊びではなくなり、出てきた穴だけをいかに素早く触り切るかというものになってしまう。言葉というモグラは、もう出てこなくていいのです。そこには、真っ黒な穴の集合があるだけです。


マンホール跡の道路

 文字だけが増えていき、言葉のないリスト。無造作に文字が並んでいるだけのリスト。こういうリストになってくると、自分が嫌になる以上に、目の前のこのリストが怖くなっていきます。
 言葉がないということは、意味が全く付け加えられないということであり、それは、同じ意味が繰り返されるということでもあります。「犬」という項目の後に、「かわいい」、「かっこいい」、「愛くるしい」、「優しい」、「人懐っこい」などが続いていく、それぞれ意味は違いますが、全体としては、〈犬の性格〉という意味では全部同じで、繰り返しなのです。
 同じ意味だけが出ているリストは、書いている自分にとって全く面白くありません。むしろ、言葉を埋めるためにただ文字という砂を永遠に入れているようなもので、一生埋まりません。
 穴はずっと深く、というより、深く感じられてしまう。覗くと怖い。何も見えない真っ暗闇です。道路にあるマンホールの蓋が、ある日から全部空いていたら怖い。その道は歩きたくなくなる。落ちそうだからではありません。その空いている道自体が怖いのです。つまり、一つの項目に同じ意味を繰り返すことが怖いのではなく、もはや意味のない項目が羅列されることに恐怖を感じるのです。


顔のないマネキン

 なぜ、リストを見なくなってしまったのでしょうか。そもそも、最初はリストを作りたいと思っていたのに。きっかけはどこからだったのでしょうか。
 作るのが楽しかったのは、自分を見つけていけたからでした。そうやって、知らない自分がどんどん増えていくことに幸せを感じていました。しかし、その数が増えすぎると、今度は一つ一つの自分の輪郭を作ることができなくなっていく。時間の問題です。
 そうすると、ピックアップしようが、優先順位をつけようが、ずっと扱えない自分というのが出てきてしまう。そういう自分が増えていくのは嫌なので、なるべく、すべての自分に言葉を付け加えるようになっていく。だけれど、そうするとその言葉が浅くなってしまい、同じ意味を繰り返してしまい、掘って掘っても全く埋まらない、深い穴のような状態を産んでしまう。そうして、穴ボコだからのリストをみるのは怖くなっていくのでした。
 以上を見ていくと、切り替わったポイントは、メモを充実させるのに時間が少ないということでしたが、これは避けられないことです。ですので、もっと後を見ていく。すると、やはり問題は、時間内に扱えない自分がいるのが嫌である、その気持ちということになる。なぜ嫌なのか。それは、気づいたのに宙に浮いたような自分の一部が、いるからです。透明な自分が、空白のままが不安なのです。自分の身体には、顔のないマネキンがくっついたような気持ちになる。


マネキンに顔を書く

 問題は、不安でした。自分が中途半端でいいのかという不安です。これは、単純に、なんらかの挫折で、人生終わった、みたいに感じるような時とは違います。自分という一人の人生が、不安であるというのとは違います。
 この不安は、もっと微妙だが、確実にくっついているようなものです。一つ一つの項目は、それぞれ、知らない自分です。項目の数だけ自分がいる。その自分が、顔のないマネキン状態になっている。得体がしれないのです。でも、項目にある限り自分が書いたことは間違いない。ずっとそばに、視界の端に、見たことがあるが声をかけられない人がいるようなものです。その人は、こっちを見ているのか見ていないのかわからない。ただ、ずっといる。
 このずっと誰かがいるというのが、この不安です。対して、人生の不安は、自分がいなくなりそうなものなのです。なので、誰かいる不安というのは、もっと捉えにくく、扱いにくく、それゆえ、ずっと付いてくるものです。
 この種の不安に対しては、もう声をかけていくしかありません。この不安は、声をかけられるかどうかの不安でもあるのです。別に、そのそばにいる誰かが怖いわけではない。だってそれは、自分が見つけた知らない自分ですから。本当はすっごく知り合いなのです。だから、声をかける勇気だけあればいい。不安というマネキンに、言葉という顔を書いてやればいい。


自分に重なるマネキン

 メモを作ることは、新しい自分を発見していくためだけでなく、知らない自分を知っていくことでもある。つまり、喜びの裏には、不安という気持ちもあるのです。言葉が増えていって嬉しいのは、それまで本当にいるかどうか不安だった自分が、姿を現していくからです。
 だから、少しでも自分の不安がはっきりしていくようにしたい。だから、リストの項目全てに、手をつけようとしたくなるのです。この不安の問題と、時間の制限がバッティングしてしまい、そうやってうまくできない自分を責めていた。メモリストをみるのが嫌になる。目の前にある不安のリストは、もうどうしようもないからです。
 じゃあどうすればいいのか。もう、私たちは解決策を知っています。メモを作ることは、自分という不安を知っていくことでした。それは、言葉によって可能になる。つまり、不安は言葉にしていく。逆に言葉にしなければ、不安は不安のままでやってくる。僕が以前、メモをしなければ、その言葉はまた後ほど繰り返しやってくると言いましたが、それは、不安が原因だったのです。
 メモをしないということは、その不安を見ないようにすることです。同じように、メモリストを見ないということは、あやふやな自分を知らないようにすることです。だから、言葉にしていきます。言葉にしていくと、不安は喜びにつながる。少なくとも、安心することができる。だから、メモリストにはこう付け加えるのです。「メモリストを見たくない」。マネキンは、自分の外側についているだけではなく、ちょうど自分に重なるように、付いてもいるのです。


マネキンを人間にしていく

 メモリストを見たくなくなったのなら、「メモリストを見たくない」と書いてしまう。そうすることで何が変わるのかと思うかもしれません。ですが、書いてみるのです。そしたら、不思議とスッキリします。少し楽になります。言語にすることで、頭の中の言葉が少し自分の外に出たからです。
 そしたら、「メモリストを見たくない」という項目に、言葉を付け足します。他の項目もありますが、今一番付け足したいのは、その項目です。なぜ自分が見たくないのか、どうなっていくかという観点で、連想をしてみます。
 「メモリストを見たくない」「何がいけなかったのか」「何がいけなかったのか」「本当にいけなかったのか」「いけてる時はどうなのか」「自分がいけている時」「自分がスッキリしている時」「自分が動いている時」「何が動いているのか」「動いているのは手である」「手は何を書いているのか」「手は自分の不安を書いている」「何が不安だったのか」「時間がないことが不安だった」。
 こんなふうに、たとえば連想ができます。やると、少しずつ、自分の心が晴れていく感じがする。不安が、少しずつ、時に戻ることもあるかもしれませんが、少しずつ具体的になっていく。不安は、言葉として姿を出す。言葉を付け加えていく連想は、不安を安心へ変身させます。マネキンには、顔だけでなく、服も書いちゃうのです。そして、一人の人間にしていく。


マネキンにポージングさせる

 言葉の連想で、不安が安心に変わりつつあるところで、さらに言葉を連想させてみます。連想のゴールは、自分がすることに終わるからです。
 「時間がないことが不安だった」「時間がないのはなぜか」「優先順位をつけられないから」「ピックアップできないから」「なぜピックアップできないのか」「全部の自分が大事だから」「どうして大事なのか」「全部自分だから」「でも時間がないじゃないか」「それはそう」「時間がないのに時間があるっていうのは変じゃないか」「まあ確かに」「仕方ないのではないか」「でも、仕方は見つけたい」「うん、そうだ」「ピックアップに工夫できないだろうか」「そうねぇ」「ピックアップするときに、何を基準にしてる?」「なんか気になることって感じ」「そこじゃない?」「え」「つまり、気になるってのが曖昧なんじゃない」「あー」「気になるところって、そりゃ全部気になるもん、自分のことだから」「自分のことじゃないことかー」「うーん、たとえばねー」「なんか思いつくー?」「そうだねー、不安というか、まず、そうね、時間が足りないことが一番問題でしょう」「うん」「だから、絶対終わるようにしたいのよ、一つは。メモリストをやったことにしたい」「うん、うん」「最低限、今日見ておきたいこと、みたいな基準でピックアップしてみたらどう?」「それだ!!」。
 長くなりましたが、最終的に、どうするかというところに至りました。人が出てきましたね。なんかこれも連想するポイントかもしれません。もうなんでも書いちゃっていいんです。自分から出てきた言葉なら。ただ、耳を澄ますのを忘れずにする。
 最後まで書いちゃったら、もうここには、不安はありません。不安はなくなりました。なぜなら、次からどうすればいいか、分かったからです。連想のゴールは、自分のすることを明らかにして、自分の不安を解消することなのです。なぜなら、連想のスタートは、自分の声を言葉にすること、つまり、知らない不安な自分を見つけることから始まったのですから。不安のマネキンは、一人の人間となって、動けるような、ポージングをとってもらいたいのです。


マネキンの瞳

 メモリストは、自分の不安を行動に変えてくれる、勇気を与えてくれる道具です。メモリストを作る前の自分は、仕事で忙しいだけの自分で、それ以外の自分を蔑ろにしてきました。それは、漠然とした不安として、ずっとあったんだと思います。このまま過ごしてていいのか。でも、どうすればいいのかわからない。そんなことを頭で考えては、消えていき、また浮かんできて...の繰り返しだったと思います。
 この苦しい循環から脱せられたのは、その不安を言葉にしたからでした。言葉にすれば、次が出てくるのです。次は何かわかりません。でも、言葉にした瞬間に、あ、まだ次があるんだろうな、って思う。
 まだ不安は残っているかもしれません。というか、残っているから言葉にしたのです。それで次があると思うから、不安もまだあります。不安があるから、言葉にしていく、連想できる、頭の中の沈黙に、耳を澄ませることできる。
 不安は、音がないからです。僕が頭の洞窟とか、心とかと言っていたのは、それが真っ暗で、それが不安だったのです。でも、言葉を発すれば、次の言葉が返ってくる。少し間があっても、新しい喜びが、奥の不安を少しずつ明るくしていってくれるのです。マネキンの瞳には、少しずつ、光が宿っていくのです。


不安というブースター

 メモを作ることに、もう恐怖はありません。不安は、恐怖ではなく、メモを作りたいというエンジンとなります。言葉を鳴らすエンジン。不安はガソリンで、動く振動が、言葉となっていく。
 エンジン自体は、自分の心臓です。心臓は、言葉を発するたびに、どんどん高鳴っていく。言葉はどんどん出てくる。声だけを拾っていくのです。その言葉に意味があるかどうかなんてどうでもよくなってくる。だけれども同時に、どうするかに向かって、具体的になっていく。
 我を忘れる、どんどん忘れていく。忘れることで、もっと不安というも露わに受け取れるようになって、さらにエンジンは加速します。もちろん、ずっとではありません。不安のガソリンは、燃費があまりよくないのです。
 ですが、注いだ瞬間のエネルギーの発露は、いつも自分の予想以上です。ほんの少しで、一気に遠くにいけてしまう。最初の項目を作る瞬間が、その予感を帯びているのです。加速していけるだろう予感です。マネキンは、項目というブースターを背中に背負って、スタートラインに立っている。


無音の河

 不安が言語化されていくその連想が楽しいのは、加速感があるからです。言葉が次々浮かぶというよりも、自分が書く言葉がわからないけれど、どんどん先に言葉が出てくるような感じなのです。まるで、河で石投げがうまくいくような感じです。その石は、いつまで伸びるかわからないけど、はねる、ぴょんぴょんぴょんぴょん、リズムを取って伸びていく。
 その石が全く跳ねない、すなわち、投げたらぽちゃんと沈んでしまう、そんなことばっかりが起きてくると、河はシーンとしてしまう。こうなってくると、不安は加速としてではなく、恐ろしさとしてやってきます。何も応えてくれない。沈黙がやってくる。
 うまくいっている時の沈黙とは、石が次に跳ねるか跳ねないかのあの一瞬の隙です。対して、ただの沈黙は、ただ河だけがあるような、しかも音のない静けさです。それが、どんな項目においても続くようであれば、もっと怖くなっていく。どんな石を投げても、石は全く跳ねていかない。言葉は全く出てこないか、出てきも同じ意味を繰り返している。
 このような状態はいつでもあり得ます。リストを作ることで、どれだけ不安を安心に変えていっても、人は毎日変わりますから、いつも新しい不安がやってきているはずです。ですから、その不安をメモしないままの日が続くいているはず。あの無音の河は、いつでも訪れるかもしれない。


いい石を投げない

 不安は、一生無くならないのではないかという不安です。不安を言語化できていない自分がいるという不安ではなく、不安自体に対する不安です。
 不安な自分に対しては、絶えず言語化していくことで対処していきました。しかし、不安自体に対しては、言語化で対処していくことはできない。不安は、言葉にできないからです。不安は、あくまで言葉の源泉であって、源泉は言葉にできない。
 この不安については、対処方法というか、不安がない状態は作ることはできません。「自分に不安はありません」と言っている方もいらっしゃるかもしれませんが、それは言葉にした瞬間に、「そうではないのでは...?」と、どこかで不安が生まれてくる。だから、無くそうとするやり方では難しいのです。
 不安は無くならない。反対に、不安はずっとある。その様子は、言葉の源泉としてある。その源泉は、不安をメモした時に感じとれる。だから、連想という流れが出てくる。不安は、敵ではありません。味方につける必要がある。河が無音なのは、別に河のせいじゃないのです。自分が、いい石を投げてないからなのです。


いい石は見比べる

 ここでいう石とは、項目のことです。いい石を投げないとは、いい項目に向かい合ってないということです。私たちはすでに、項目を並べ替えるという方法を知っています。あれは、何を並べ替えているのか。気になった事です。それはもっと言えば、不安を並び替えている。
 メモリストは、不安のリストです。そこにある項目は、それぞれ、不安の一部です。リストにすることで、不安をいろいろな側面から取り扱おうとしているのです。そして、その不安の塊の、どこをつつくかによって、その流れ具合が違う。言葉の源泉としての、加速感です。
 このどこをつつくかを見定めるために、並び替えて、優先順位をつけていくのです。優先順位は高い方が、気になる。低い方がまあ後でいいやと思える。それはつまり、不安についても、優先順位があるということです。
 不安は、一塊という姿を取っていますが、同時に、凸凹した形になっている。それは時間で変わっていく。この凸凹の一つ一つの突起が、項目です。この項目は、出たり入ったりしている。だから、毎日、並び替える必要がある。目立つ不安から潰していくのです。いい石を見つけるためには、気になる石を集めて、そこから見比べて、一番飛びそうなのから投げていけばいいのです。


その日の痒みを和らげる

 いい石を選ぶように、いい項目を選んでいく。この良いというところに、不安の度合いがあります。不安にも順番がある。不安には、大きいや、小さいがあるのです。
 大きい不安に出会うほど、言葉はどんどん出てくる。とっても気持ちい。痒い所に手が届くような気分です。そして、ある程度かき切ったら、今度は他の不安の方が目立ってきます。
 一つ一つの不安ごとに、自分のすることが出てくるまでやるかどうかはその時の気分次第です。一つの項目だけをずっとやるのなら、その不安があまりにも大きいのでしょう。あるいは、意外と小さいのなら、ある程度言語化したら、とりあえず置いといて、他の不安の項目を言語化していくでしょう。
 大事なのは、その日のうちに、連想のゴールに行き着くことではありません。自分のすることを書き切ることではありません。そうではなく、自分の背中に痒いところがないか、点検できることです。不安の凸凹を、ある程度滑らかにできるかどうかです。それは、その日を満足したものにできるかどうかということです。一つの項目に満足するのではないのです。あくまで、その日です。背中の痒いところは、日によって変わるからです。明日の痒みはわからない。なので、その日の痒みをいい感じに和らげることしか、できないのです。

 

*第七章は、来週掲載予定です。