1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

坂口恭平を走り書く_3

断る理由はなかった。ぼくは小さい頃に連れていってもらったロシア人のサーカスしか行ったことがなかった。ぼくには経験がなかった。いまもない。いろんな経験はある。あるはずだ。あるのにかたっぱしから忘れてしまう。いつも何も残らない。それでもいま、ぼくはシミのことを書いている。思い出す、とも違う。そういうことはぼくにはできない。できないことはしない。

坂口恭平(2017)『しみ』(朝日新聞出版)p.20


 そもそもナミが存在するのかどうかすらわからない。バルトレンの姿が目に入った。何度も彼を見ている気がする。わたしは自分で書いたメモを読み返そうとした。すぐにいつの話なのかわからなくなってしまう。バルトレンは酔っていた。ここは酒場なのか、いたるところで酒の匂いがした。わたしはここにもう一度、戻ってくる自信がない。すぐに道を忘れてしまう。自分の体を少し高いところから見る、ということができない。目の前の道だけがいつも、こちらに向かってくるので、わたしはぶつからないように用心することしかできなかった。
 ペンは何か知った気になっている。しかし、彼が言っていることはどれも上の空で、なぜ周囲の人間たちが頷いているのかわからなかった。

『建築現場』(2018、みすず書房)p.36


「そうだ。砂漠だった。おれは車を降りた。見つけようともしなかった。それでも通り過ぎるんだ。いろんな動物が通り過ぎた。砂漠だからって生物がいないわけじゃない。水がないなんて馬鹿みたいな話だ。おれはそこで生きた。息を吸ってた。古びた紙片まであった。読まずにただ手に取ったよ。お前の手紙みたいに。そのまま何日か歩いてた。そこに森があったんだ。驚きもしない。ただそこに森があった。それだけだ。おれが知っていた森だった。まったく変わっていなかった。植物は育ったり、枯れたりするだろ? でもその森は写真とまったく同じだった。おれはそのまま森の中に入っていった。風すら吹かない日だった。夜だった。獣に食べられてもおかしくなかった。でもそのときは何にも考えなかった。ガラスに映り込んだその道をただ歩いた。入り口だってあるんだ。森には入り口がある。どんな森にも入り口がある。そこを間違えると、二度と戻れない。

『現実宿り』(2016、河出書房)pp.18-19


歩いていると、空間の切れているところがある。ヒラヒラしていて、奥から風が入ってきていた。