1ルーム

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【ざっ記】無理に頑張らないで書く感じ

できれば毎日、何かしら文章を書きたいと思っている。
書くというのは僕にとって生理的な行為で、出さないとお腹の中で詰まってしまう。詰まると便秘になってしんどい。

それでも、書きたくないことがある。便秘になっているのか。きっとその反対。空っぽなのである。
書くことがないから、書きたくない。書くことはしたいはずなのに。
この時僕は、「書かなければいけない気持ち」に陥っている。

別に悪いことじゃない。書きたい気持ちに素直になっている証拠だ。
でも、そうして動機を押さえているのに、気持ちは裏側を向いてしまっている。
もったいない心の抱き方だ。

どうすればいいか。
もったいないの反対で、エコな気持ちを考えてみる。
ただ書きたいと思っている状態。書きたいから書いている時。書いているから書きたい。普段から書いているから、書きたい。
書いている時間が喜びだから、また書きたい。書けるならいつでも書きたい。
この時僕は、「書きたくなる気持ち」に入り込んでいる。

これには、いいことばかりでない。
確かにこういう時、書くことはどんどん溢れ出てくる。溜まっている。出したくなっている。出したら気持ちいいだろう。
しかし、全部出てしまったらどうだろう。出し切ったのに、まだ気持ちだけが一人歩きして、無理に出そうとしてしまう。
そうするとしんどい。そんなのわかってるけど、書きたい気持ちは収まらない。
そうして、小部屋に閉じこもることになってしまう。気づけば頑張っている。

書くことを、無理に頑張らないようにしたい。
頑張らないことは、ちゃんと書かないことを意味しない。
しっかり書く。書くが、書こうとすることをしない。
ただ書く、というのともちょっと違う。書くことに集中している、というのともちょっと違う。
書くことが習慣になっている、という表現なら近い。ただ、それでもハードルの高さが残っている。
もっと素朴に、当たり前と普通、この中間ぐらいの意味で、書くことを捉えたい。

そう。書くことは、事務的だ。
頑張らないで書くこととは、書くことを事務する、ということ。
事務的に書くのではない。それでは書類作成である。マニュアル通りに書くということではない。
事務する、と言った。人が事務をする、あの淡々とした手の動かし方を言っている。それを、書くという行為に取り込む。
この書き方を、「ただ淡に書く」と呼んでおく。

そして、ただ淡に書けて、頑張らないで済んだとしても、その書き方がそう淡々と続くものではない。どうしても無理が出てくる。
手は動くから、文章は出ているのである。
けれど、心がこもっていない。出てくるのを見ても、健全な状態とは思えない。そこにあるのは、潤いのない、乾燥した語句がバラバラ並んでいる。
つまり、手を貫く管の巡りが悪くなっている状態。だから、そういう書くことの血液、インクを質のいいものに、新鮮なものにしたほうがいい。

それには、新鮮な体験をすることである。
大したことをしなくていい。書くのは毎日。だから、いつでも起きていること。
それは、書き始める前。原稿に手を入れるその、白紙を眺める時。
書く時はいつでも、緊張する。「ど緊張」はしない。「ど」の濁点を取った、「と緊張」ぐらい。
その時に生じる、錯乱状に織り込む光の膜を咥える。
この時、書かれることが解かれる。チラついた糸を手繰る。一本の流れにしていく。途中から、川が上から下に落ちるような自然になる。
このなだらかに坂を下りていく感覚。これが、毎日の無理を書かないようにする傾きだ。

「なだらか」に書く毎日。書くことを厭わないような日々。もちろん、嫌っていない。でも、好きでもない。それは、「ただ淡に書いている」だけ。
ただ淡に書けないなら、単なるものは書かないと決め込んでいる。書いてやろうと思っている。書きたいことがあるはずだと思っている。実際はある、けれど容量がある。だから、擦り切れても書く行為に走る。こうした僕は、「書きたくなる気持ち」を携えている。
僕は書きたい気持ちに駆られる。この今の気持ちは前に置かれ、いつでも明日が書く予定になる。今日いる僕は明日も書く。
だから、明日のために書くことが毎日になる。今日は昨日の翌日である意味で過ぎた明日。だから書いているのは当たり前。
そして、その翌日の迫る明日も、書くという行為が決まっているのである。
僕は、「書かなければいけない気持ち」を背負っている。

それではなぜ、背負ってしまったのか。どこから重くなったのか。
僕は、書くことについて、一体何の責任を負ってしまったのか。