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研究方針 【坂口恭平を走り書く_1】

この記事をお読みになってくださっている方は、坂口恭平さんのことをある程度ご存知なのだと思います。なので、坂口恭平さんがどんなことをしている方なのかは紹介しません。
なので、この記事のカッコ書きのところに書いてある「坂口恭平を走り書く」の意味を話してみようと思います。あんまり考えてないので、うまくいかないかもしれませんが、やってみたいのでやってみます。

そもそも僕には、研究欲があります。
ただ、この研究、という言葉の意味が、一般的な感じとはズレています、多分。
僕は、大学院に行っていました。論文を読んで整理したり、根拠をつけて主張するとか、そういった研究っぽいことをやっていました。でも、馴染まなかったんです。整理しようとすると、すぐぐちゃぐちゃになる。というか、全部くっついていて、分けても分けられないみたいな状態になっていく。頭の中には引き出しがあるといいますが、僕の場合、もうそのタンス自体が歪んでしまっているんです。なので、取手みたいなのを作れても、もう取り出せないんですね。まとめた瞬間、別のまとめとくっついてしまって、分かち難くなってしまう。なので、整理しても整理しても、整理したものを見るたびに、整理する。あれ、でもどんどんぐちゃぐちゃになっていく。反対に、綺麗に分けようと思いすぎると、めっちゃしんどいし、めっちゃつまんない。片付け下手な人です。(部屋はゴミ屋敷ほどじゃありません。)
そういう、整理ができないってこととか、あと、根拠を踏まえて主張するってことです。これもできない。
論文を書きます。論文を書くためには、言いたことがあります。そしてここでもうつまづきます。言いたいことはあるんです。書くときには。でも、書いていると別の言いたいことを発見してしまう。そしたら、どんどん言いたいことを並べていく形になるんです。それで、ひとまず書き終わったら、もう何を言っているかわからなくなる。今もその状態になりつつあるのですが(笑)、でも、そうやってどんどん変化していくのが楽しいのです。けれど、研究論文というのは、言いたいこと一つのために、論拠を並べ立てていくのが基本です。だから、僕が論文を書いてみて、授業で発表して、結局何が言いたいんって聞かれます。そしたらそれゃ、答えられないんです。答えるんですが、色々言いたいことを全て逐一言ってしまうか、なんとかその共通項を取り出して言うみたいな感じになります。なら良さそうに思えますが、その共通、というのも厄介で、意味不明になっちゃう。例えば、りんごは美味しい、りんごは甘い、りんごは赤いって、三つ言いたいことがある。でも一つって言われて、僕は全部が言いたいから、頑張って共通項を探すんですが、そこから出る一言は、「りんごはなだらか!」、みたいになってしまう。よくわからないです。でも、僕はこの一言で、さっきの三つを全部言えたと思ってしまう。でも、それが人に伝わらない。なので、僕は主張が苦手なのです。
主張をしようとすると、根拠から飛躍してしまう。根拠を集めるために整理しようとすると、どんどんぐちゃぐちゃになっていってしまう。整理と主張ができない。逆を言えば、整理と主張ができる人が、研究のできる人です。

そんな研究のできない僕が、それでも研究をしたいと思うのです。だから、僕が思う研究という言葉の意味は違うのです。ずれている。
研究は、気になるところから始まります。そしたら調べます。よく理解したいから自分の言葉にします。そうしていくと、なんかわかった感じが出てくる。そして、最後は飽きる。僕にとって研究って、こんなテキトーな感じです。
一般的な研究と比べると、気になるところ、という部分は同じだと思います。調べるのも同じ。自分の言葉にしていくのも大事でしょう。わかった感じもないといけない。なので違うのは、飽きるってことです。
研究者は、自分の研究テーマを見つけてしまうと、それを探求しなければいけないのです。コロコロ変えると、中途半端なやつだと思われてしまうから。ここです、ポイント。つまり、誰かに思われてしまう、ということが面倒なのです。論文は、論文誌に掲載されます。そのために、査読という他の研究者にチェックを受けます。だから信用できるのですが、この見られる、ということのために、なんだか始めたら一生やめちゃいけない、みたいな感覚になってしまう。僕なんか絶対無理です。興味がなくなったらもう見たくない。それでも取り組むなんて考えられません。しんどい。
というわけで、話がもう全然、違うふうになっていってしまっているんですけれど、もっと研究を、自分の言葉を発見する、というすごく個人的な営みとしてやっていきたい。これが言いたかったんです!(言えた!)。

いつになったら坂口恭平の話に入るんでしょう。そろそろです。そろそろ。
それで、僕は普段からメモばっかりしている人なのですが、思ったことを書きつけます。スマホなんですが。
そこには、外の景色とか、読んだ本とか、愚痴とかを書いたりしているんですけれど、そのメモを見返していくと、坂口恭平さんから影響を受けているということがビシビシある。
色々著作を読んだり、ラジオ聴いたり、音楽を聴いたりしていました。そして、その度になるほど〜っと思い、それを、どんどん自分の言葉に変換していったのですね。
でも、そうやって坂口さんの節々を言葉にしていっても、結局、僕にとって坂口恭平ってなんなのか、どんどんわからなくなっていったんです。それで、もっと知りたくなってきた。
そのためには、方法が必要です。これまでのように、ちょっと見聞きしたことをメモしていくのでは細かすぎ。もっと広く、坂口さんを捉えたい。そこで最近、ちょっと研究っぽくなる方法を思いついたのです。

それが、三つぐらい、テキストを引用して、それからう浮かぶイメージを書いていく。そしたら、書き損ねたイメージが絶対あるだろうから、それがなんなのかをまた引用して、同じことの繰り返し。
引用しているから、研究っぽくないでしょうか。さっきまで、研究とは自分の言葉を発見することだと言いましたが、ここで、引用という新しい要素が加わっています。
引用です。根拠じゃありません。根拠は主張とセットです。対して、僕がここでやろうとしているのは、引用です。引用とセットなのは、イメージです。このイメージについて、まだ僕は言語化できていないのですが、この連載をやっていくうちにわかってくると思います。

連載です。僕は、たった今明らかになった、自分の言葉と引用(とイメージ)という研究を始めようとしています。飽きたらすいません。
そして、その研究対象が、僕にとって不思議な存在である坂口恭平さんになります。

基本的には文章になったものをメインに進めていきたいと思います。三つぐらい引用して、イメージを言語化して、また引用、の繰り返し。多分、意味がわからないところも出てくるだろうし、それは書いている僕にとっても同じです。つまり、単なるメモと似たようなものになる可能性が高い。
メモって、走り書きって言ったりします。なので、僕がこれからすることは研究、と言いながらも、なんだかメモってるだけみたいな感じになるんでしょう。それで、タイトルに、「走り書く」と書きました。
ただ、「走り書く」と「走り書き」は違う気がしています。「走り書き」は、本当にテキトーに書いたメモで、意味がわからなかったりする。でも、「走り書く」というのは、リアルタイム感がある。
メモしている時のイメージを、なるべく生で伝えたい。そのための方法が、さっきの引用法かもしれないのです。
そうして、この記事を書こうとしている。やっぱり、誰かに見てもらいたいのです。でも、見られている、という縛りだけは受けたくない。
僕は、一緒に見たいのだと思います。家のテレビで映画を見ているみたいに、カットをつなぎ合わせて、間に感想を挟んで、のような。
だから僕はここで、研究を、個人的な営み以上のものにしていきたいとも考えているのです。