1ルーム

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【長編】冒険の神話(9)

背中の感触が柔らかかった。誰かの笑う声。遠くの方では、嘆く声。悲しい気持ちになったり、嬉しい気持ちになったりする。落ち着いてく気持ちは、ただ分厚い、安心感であった。

日の光が近くにあるだろうことはわかる。それも相当近くだ。けれども、不思議と皮膚は焼けない。何か衣のようなものに包まれているらしかった。

手の人差し指を少し動かすと、その衣が反応して、ビヨビヨビヨと、静に全身へ振動して行き渡る。また、穏やかな気持ちになる。

このまま寝ていてもいいと思った。再び寝付くまで、思いつくままに、周りの状況を想像してみようと思う。

きっと近くには虹があるだろう。それも、七色ではない。十四色だ。一見その虹は、七色であるが、よく見れば、ズレている。一色ごとにズレている。だから、結果的に14色の虹なのである。

その虹は、どうして生まれたのか。これもまた、僕の気持ちを安心させるため、他の者をも安心させるためである。はて、ここには僕以外もいるのか。

僕は今、仰向けで手を合わせて寝ている状態だ。非常に無防備に違いない。いつ、誰に襲われても抵抗できないし、抵抗する気もない。抵抗しないことこそ、最も安心できるのである。対して、他の者でも俯きになっているだろう。そういう者たちは、手を合わせることはせず、倒れたかのような姿勢で、手を上に上げて伸びている。足は開きかかっており、だらっとしている。姿勢こそは違うが、僕と同じ安心する気持ちであることには変わらない。ただ、向こうのほうが少し呼吸がしずらいとは思う。

僕は息を吸ってみる。ここの空気には味がした。ほのかに甘い。綿菓子を食べているような感じ。鼻から吸った空気は舌に残り、ザラメのような形になった。

キーンと耳鳴りがした。虹の向こうから、飛行体が飛んできたらしい。飛行機ではない。人でもない。動物でもない。けれどとっても素速い何か。

矢だ。矢が、すごいスピードで飛んでくる。矢先は鋭利じゃない。しかしわかった。それはこちらに向いて飛んできていた。そして、もう遅かった。そいつは、僕の心臓を突き刺した。

息が止まった。心臓が止まったからである。しかし、今こうして思考しているわけである。死んでいるわけではないようだ。けれど、積極的に生きているわけではない。

心臓の刺されたあたりから、ムズムズしたものが走ってくる。それは腹や肩の方に広がって、足、頭の方に同時に渡っていく。そしてついに、全身に行き渡った。

身に纏っている衣がこれ以上にないまでに震え、ギザギザ振動している。僕は、空いた心臓で、心構えをした。

 

すっぽ抜けた。柔らかかったところから、僕は落とされた。落ちていったと言ってもいい。落ちに行ったということでもいい。

落ちている途中、僕は身体を反転させ、キッと背中の肩甲骨あたりに力を入れた。

ムキっと何かが生え、両腕の方に広がった。手のようなものかと思ったが、それよりも広いし、指のようなものが数えきれないくらいある。そして、その一つ一つをそこまで簡単に動かすことはできないから、指としては機能しないことがわかった。動くのは、付け根あたりである。そしてそこに力入れてやれば、ふわりとまた、身体が浮いた。静かに前に進んだり、後ろに進んだりする。

どうやら僕には、翼が生えたらしい。加えて、頭上には何かが高速で回っている。方向感覚が鋭く、かつ広くなり、誰が悲しくて誰が嬉しいのか、グラデーションになって感じられる。自分の身体を包囲するように、その淡いが変化し続けている。

身体の体感温度は、そのグラデーションによっていた。悲しい気持ちが青色で、その方面では冷たい気持ちがする。嬉しい気持ちは赤色。その方面では暖かい気持ちがするのである。

 

僕は、寒いのが嫌だった。そこで、冷たいと感じる方向へ向かうことにした。

冷たい冷たいと、向かう先が叫んでいるような気がした。急いで向かわなくてはならない。翼をばたつかせ、頭を下げ、速度を上げた。そしておそらく、おおよその位置の上空に着いた。
そこは家のようなものが並んでいる。道には寒い人ばかりが歩いている。寂しい人たちだ。この人たちの青色は、霞んだ青色。冷たいことには変わりないが、擦れた跡がこびりついている。

この町の人たちは自然ではないのだ。そう思った。どうにかして、この人たちに赤色を滲ませてやりたい、そう思った。

その中でも、特に寒い者がいた。鐘が鳴るところにいる。

観察していると、そこはある時刻になったと思ったら、たくさんの人が集まってきた。そして、その者の話を聞き、堪えきれず涙をする人や、じーっと感傷に浸っている人がいる。それが終わった後は、一斉に歌を歌い、その場の雰囲気が、もっと冷たくなるのであった。

一人一人が、その者に挨拶をして帰っていく。彼らは、その冷たさを増し、家に戻っていく。しかし、その足取りは来る前よりは軽かった。一体どういうわけなのだろう。こんなに寒いのに、あんなに軽やかになる気持ちというのは。

不思議に思いながら、僕はその者の方へ出向いた。

その者は、歌の時に使用したオルガンの前で座っていた。そして、頭上にあったステンドグラスを見つめた。

そのガラスには、大きいなお母さんのようなものが写っていた。けれどこれは、僕のお母さんではない。そもそも、僕にお母さんなど必要なかった。僕は、お父さんから生まれたからだ。

それでも、先ほど来た者たちは、このステンドグラスをずっと見つめていた。まるで、そこから生まれてきて、そこへ死んでいくかのように、心臓を捧げるばかりのように、身を乗り出していた。

対して、そういう彼らの前に立つその人は、同じ気持ちにはなれないようだった。実際、今、その母を眺めているその目には、冷たい気持ちが湧いていないからである。微かに、とても微量だがほのかに、赤い香りがする。

そうか、この人なら、この町を赤くすることができると思った。そして僕なら、その手助けができるかもしれないと、ワクワクした。

でもまだこの人が、完全に味方してくれるとは限らない。僕がこれからしようとしていることは、見方によっちゃあ残酷かもしれないからだ。冷たい気持ちから暖かい気持ちにすることは、冷たい彼らにとっては辛いことかもしれないからだ。

そこで僕は、しばらくこいつの観察をすることにした。こいつが、いつ暖かい気持ちを迸らせるのか、そのタイミングさえ分かれば、僕は手に持っている矢で、そいつの心臓を射抜けばいいのである。

 

まず、こいつは男だ。髪の毛は丸く剃られており、首からは十字のブレスレットをかけている。黒い服を着て、下は黒いズボン、上は白いシャツを着ている。
そして、手に持っているは、片手で持ち運べるような本である。そこには、断片のようなものがぎっしり書かれて、整理されているような体裁を装っている。男や町の人たちは、この本をずっと手に持っていた。

この男は、その本をピラリとめくっては、口で細々と唱え、ステンドグラスの方を見やっては、別の文言を唱える。そしてまた、下を向き、同じことを繰り返す。

しかし、本を見ていっていることと、ステンドグラスを見ていっていることとは異なっていた。最初のうちは、同じ言葉を繰り返していると思っていたのが、聞いているうちにそうでないことがはっきりしてきたのである。

本を唱えている時には、その男の目は死んでいる。しかし、ステンドグラスの時には、目に輝きがあった。本の文言は、僕にとっては理解したがく、遠いところの出来事のように思えた。一方見上げ時の文言は、容易に理解できた。その内容は、今日の夕飯をどうしようかといった、ありきたりなことだったからだ。昨日はシチューだったから、今日はパスタにしようか。しかし、唐辛子は売ってたっけな。

男は一通りその時間を過ごし、夕ご飯の内容を決めた。そこで、この建物に誰もいないかどうかを確認し、その本に今日の買い出しのメモを書き連ねた。その様子は、あたかも真面目な、しかし人によっては神聖なものを汚すような行為だったに違いない。だから、男はそそくさと書き連ねていた。その背中は、小さかった。

男は、その本を片手に、バックを肩にかけて外出した。向かう先は、市場の方角だった。

男は誰からも尊敬されているようだった。すれ違うたびに、その名前が呼ばれ、男は笑顔で返事をし返す。そのまま市場に着いても、その様子は変わらない。

まず、魚の売り場を見て回った。太刀魚のことが気になっていたようだが、目玉がぎょろっとしていたせいか、今回買うのは諦めた。次に寄ったのは、野菜である。そこでは、トマトとにんじんを購入した。