1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】舞台(2)

大きくなる。観客が盛り上がったせいであろうか、先輩の声量が普段よりも聞こえてきた。
自分は台本を手に取り、次の出番を確認する。それはメモ書きだらけで、ボロボロだ。端は破れちりじりになっている。セリフの一部には穴が空いて、周りへ皺が広がっている。両手で持たなければへしゃげてしまう。

見えづらくなったセリフを、口パクで唱える。練習通りの言い方で、声を出さずに口を動かす。そうしているうちに、先輩のセリフの調子と揃ってきた。先輩が一つセリフを終えると同時に、自分もひと台詞を終える。次のセリフが始まる前には、同じ量で息を吸い、口を動かし始める。

セリフの文字が一文字ずつ、独立するようにみえてくる。文字がつながらない。音を、一文字の音を思い出そうとするだけで精一杯になっていた。
舞台が暗くなる。

出番だった。舞台が明るくなると同時に、再び袖から出てくる。タイミングが少し早かっただろうか。台本通りなら反対側には、相手役の同期がいる。
一瞬手持ち無沙汰になり、このままでは変な間ができてしまうと思った。観客を不安にさせてはいけない。雰囲気が今やっと柔らぎ始めたばかりなのに、それを戻してはいけない。
舞台に置いてある椅子に座る。少し勢い余り、角に腰をぶつける。それでも音は立っていない。そのまま両手を雛壇に乗せ、なんとなく顔を上ゲル。ただ眩しい、照明がついてる。光が眩しい。

よく見ると、光の中のレンズが、その中に小さいな丸を用意していた。電球だ。電球は、それ自体で小さく震えていた。

相手役が舞台に出てきた。舞台中に広がった不安はどうにか収まった。

「待たせた?」と、彼女は言う。


冷えた。待たせた、というようなセリフは、練習では予定されていなかったからだ。アドリブを入れてこれらたのである。

自分は咄嗟に何かを言った。曖昧な返事だった。それは暗に、彼女に決まったセリフを促そうとする含みを込めていた。

そうして、練習通りの進行になる。

彼女がセリフを吐き、自分もセリフを吐く。しかしそのやりとりは、お互い役になりきれていないものだった。普段の話ぶりに近くなっていた。

同期は自分を含め、二人だけ。だから仲良くなろうと、最初は必死だった。でもそうなるほど緊張して声が出ない。

ただ、新入生歓迎公演で主役とヒロインの役が当てられたので、練習上、言葉を交わす機会は増えた。

しかしそれでも、彼女がどんな類の感情を抱くのかは曖昧なままだった。

身体が温まってくる。


ゆとりが生まれた。自分のセリフと、彼女のセリフとの拍子を思い出す。自分の口が、何を言い出すのかが、一つ一つ浮かんでくる。

次、彼女はあのセリフを言おうとしている。自分も好きなセリフだ。自然に応えたい。

これまで何度も練習してきたこの場面。そのところの彼女の気持ちは、本当はどういうものなのか。

もちろん、役柄としての気持ちならなんとなく想定できる。けれども、それと彼女の人間としての気持ちとは、やはり同じではないだろう。

ここまで考えたところで、それを想像できるかどうかは分からないし、確証もできない。

そのセリフが浮かぶ。吸い込まれる。まずい。真っ暗で今にもどよめきそうな群れが。

「そんなの知らない」と、彼女は言った。


ドクっとする。喉だ。喉仏が迫り上がった。セリフの出だしが小さくなってしまった。

相手のセリフを考えてしまったことで、余計な何かを汲み取ってきてしまった。

彼女には感情がないのか。感情がないのならもっと空っぽだ。しかし先ほど感じたのは、張り裂けそうな多方向。これまで感じたことのない動き。観客を前にしているからだろうか。ならば、それは彼女の感情か。あのセリフには、観客の諸々の感情が込められていたのだろう。それが、そのまま放たれようとした。

けれど、彼女はそのセリフをうまく言い得たとは思えない。そのセリフを聞いた時、耳の奥で鳴った爆発音。大きくなった塊が、その周りにヒビを入れ、音もなく散ってゆく。その塊はどこにもない。あったかどうかも分からない。

肋骨の裏が痛くなる。


滲む。額に汗を感じる。頭皮から、髪の毛の生え際一つ一つから、じわっと漏れてくる。

彼女は、誰にでも人当たりがいいのではなかった。かといって、誰かとケンカするようなこともない。それでも、いつも誰かを恨んでいた。自身が今いる境遇に関して、たまたま近くにいた人に背負い込ませるような。そうしないと、心が落ち着かない。

別に彼女が悪いわけではない。その心がどうも仕方なく、そこにある。

彼女の発するセリフにはよく声が通り、一文字一文字が均等な大きさに連なっていた。ただ、その文字の曲がり角、止め、ハネには、小さなトゲがあった。だからこそ、観客の心にうまくくっつくのかもしれない。それは、練習で一緒に過ごしてきた僕も一緒だった。特に、あ、き、み、の三つの音が印象的だった。

彼女が、舞台の縁に歩み出る。


小さかった。彼女は小柄だった。重そうでも、軽そうでもなかった。浮いているという感じもない。

その立ち姿はまるで、建物の隙間に置いてある、観葉植物のようだった。

普段の練習の時も、あ、いる。そんな印象だった。先輩と仲良く話している時も、すらっと背筋が伸びていた。

彼女は、自分を糸のようなもので吊り上げているのだった。その姿は、重力を垂直に受けていた。

側に一人、立っている。腕を伸ばし、そのまま降ろす。その度に、彼女は不思議な粉を放った。蒔いたというより、出てしまうものだった。彼女が今、こちらの方を見ている。自分も見返す。その目尻には、化粧で光った跡が散らばっている。そんなものを付けなくていいのにと思った。彼女は瞬きする。その粉は飛んできた。

僕は瞬きをする。


聞こえてきた。舞台の袖からだ。誰かが話をしている。自分に近い袖から、ひそひそ声が聞こえる。

観客には聞こえない。しかし、聞こえるこちらにとっては気が散ってしまう。

一体何を話しているのか。台本の打ち合わせか。いや、こちらの方をチラチラと見ている。何か進行を間違えたか。それとも、あの二人はよくおしゃべりする仲だから、単純にそれだけのことかもしれない。

そういえば、彼女の方の袖には誰がいたっけ。この劇の役者は全部で五人だ。ならば後一人、いるはず。ええっと、誰だっけ。

チラッと、袖の方を見る。真っ暗だ。誰もいるような気配がない。すごく影の薄い人だったろうか。きっとそこで、正座をしていて、目を閉じて出番を待っている。そんな人だったかもしれない。でも思い出せない。共演する場面は一度もなかったか。

僕の意識が、舞台一杯に拡がる。


さらりさらり。袖を覆う幕が揺れる。今回の舞台設定の横幅は短い。だからその分を埋め合わせるよう、袖が大きくなってる。

袖は寒かった。舞台に敷いてあるマットは、袖の方までは敷かれなかった。だから、あそこは今冷たいフローリングだ。

反対に、舞台の方は暖かい。舞台の縁に近づくほど、熱くなる。

一番心地よい場所は、舞台の奥だった。照明も半分当たる程度で、両袖から入ってくる冷たい空気が、ちょうどいい温度を作り上げる。もちろん、そんな場所で休憩する機会はない。ただ、舞台に広がる温度の配分が、思った以上にバラバラであることに気づいたのだ。そして、その中でも最も冷たいところ。それは、袖奥のホールの壁沿い、非常口トビラだ。鉄のような肌触りのそれは、表面を見るだけで冷気を漂わせていた。その周りの隙間から、また冷たい空気が侵入する。

袖から舞台へ、冷気が流れ出す。


ガタガタ。非常口が揺れた。そのトビラは自分の袖にしかない。もし、何か起きれば、そこから逃げばいいのである。脱出の緑ランプが付いているから、真っ暗になっても安心だ。

しかし、一体何が起これば逃げる理由になるか。例えば、火事。照明のケーブルの接触具合で、火が出ることもあるだろう。けれどそれで逃げるだろうか。そもそも、非常口を開けるところを見たことがない。ドアノブはずっと錆びていて、ドアの周りは、壁にピッタシくっついてしまっている。いつも誰も使いたがらない。

非常口は、その名前だけあって、非常時にしか使ってはならないからだ。換気したいからといって、開けるのはいけない。だから、そのトビラの出番はほとんどない。こうしてずっと、みんなから相手にされない。だから、あんなにも冷たいのだ。

トビラが、前よりも音を立て揺れる。

 

(続く)