1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】舞台(6)

繰り返す。踵を上げ、降ろす。上げ、下ろす。体重が、両足二点にのしかかる。ずしんと、自分だけに響く音。

内臓が揺れる。しかし、上下には揺れない。お互い引っ張り合い、上下左右の斜めに動く。遅れて動く。身体全身の動きについてくるように、定まりのない揺れとして、定位置をついぞ決めかねている。違和感があったのは心臓である。

踵をやたら踏み直し、リズムを取ろうとしする。心臓が、その心臓が、支配的なリズムを発しているからだ。心臓にばかり意識してはいけない。あの鼓動の早さではいけない。

だから、そのリズムをかき消すように、別のリズムを作ろうとしていた。他の内臓と協働させて。

どうにか、心臓だけを一人歩きさせないよう、内臓の各諸の揺れを総動員し、バランスを取ろうとした。

立っているのに疲れてくる。


吸い寄せられた。壁沿いの発声練習をやめ、出入り口付近の椅子に腰を掛ける。尾てい骨が外に出て、尻が痛い。背もたれはついていたが、そこにはもたれず、反対に前のめりになった。呼吸を整えた。

少し冷静になってくると、自分が緊張している理由がわかるようになってきた。どうやら自分は、役になることを恐れている。自分じゃない声になることを恐れている。

役に入ってしまえば、もう元の自分に戻れないのだと思っている。上演が終了した時、そこにいる自分は今こうして、座っている自分と違ってしまうのではないか。そんな不安に近い恐れだった。

もちろんワクワクというか、実際にどうなってしまうのかについての興味もあった。けれどやはり、これまでの自分から離れてしまうというのが、どうも間違った方向なのだと感じていた。

足先が遠くにあるかのように目を細める。


大きく見えた。舞台が目の前にあった。その部隊は、練習で見ている時よりも広く見えた。

舞台のセットは、壁が四つ、奥に並んで、真ん中に二つ、座る椅子のような箱が置いてある。そこに、うっすら全体を照らすような照明。ホール全体は、もう開場に差し掛かっているような雰囲気だった。

この椅子から舞台に向かえば行き止まりなのに、今の位置の方が、真っ暗で洞窟のようだった。ただ側には、出入り口がある。そこから逃げたらどうなるだろう。

そこは明るい。火の光が漏れてくる。色々な人の声が聞こえてくる。前よりは行列になってきている。舞台監督が、顧問の先生と話している。開場するにあたっての、最終確認といったところ。

そろそろ自分も、舞台袖に入ろう。頭を前に倒し、尻をあげ、重い腰で舞台に向かう。

背中にすっと空間が残った。


入ってきた。お客だ。扉がガラッと開く。黒い影が、ゾロゾロ入ってくるようにみえた。そこには、クラスの友だちもいるだろう。しかし、誰も知らない人だった。

ガヤガヤする。でもそれは最初のうち。舞台の方に入っていくにつれ、だんだん静かになってくる。

椅子二つだけという舞台設定は、妙に緊張感があった。これから、よくわからないものが始まる、そういう予感だった。

開場時の音楽が流れ出す。リズミカルな。上品な喫茶店に流れてきそうな、耳あたりの良いメロディ。お客はそれを気にすることも気にしないこともできる。それくらいの音量。

彼らは、渡されたパンフレットを眺めている。そこには、演目内容と、部員の自己紹介などが書かれていた。それを見ながら、ヒソヒソ話をしている彼ら。

少しこそばゆかった。


離れていた。客の最前列は、この袖からですら、手が届かないように思えた。この境界は、どうやら照明が作っているようだ。

舞台の灰色シートから少し頭を出すようにして、照明は配置されている。その0・5メートル先に、最前列の足元があった。その横たわる暗さが、舞台と観客席を分けている。ちゃんとした舞台なら、舞台の方に段があり、敷居が高くなる。お客は顔を少し上に上げるようにしてみることになる。けれどここはあくまで平面。お客はまっすぐ、前を見ている。

どうなのだろう。舞台として、これでは迫力に欠けてしまうのではないか。学校の教室でさえ、一段高いところから教師が話すのである。だから、皆でその声を聞くのである。

しかしこの舞台は段が無い。なら、声を聞いてくれないのではないか。いくら喋っても喋っても。

頭のつむじから汗が滲む。


湿気ていた。袖の中が蒸れていた。六月であるというのにもう熱く、冷房設備はない。

そんな建物の中に一区画を設け、そこに複数人いるとなれば、湿度も高くなるだろう。

着替える。衣装も湿っている。それを持った時に、少したるみを感じた。もちろん、洗濯してくれているだろう。

用意される衣装で新しく買うことは滅多にないらしい。部員の誰かが必ず持ってくる。基本的には自分の私服だったりするが、私服で求めるものがない場合は、その親からも借りたりする。

手元にある服は確か、誰かの親のものだった。匂い。洗濯しても拭いきれない臭い。別に、人の臭いが嫌いなわけではない。汗などの一般的な臭気は避けるが、その人の臭いについては、生理的に受け付けないところまではいかなかった。むしろその人の臭いは、自分の気持ちを安心させるのである。

口を閉じ、鼻で静に呼吸する。


混ざっていた。その人の臭いと、洗濯物の匂いの両方があった。そして、最後に鼻に残ったのは、その商業向きの香りだった。そこには、その人が着ていた頃の臭いはない。

新品ではなかった。肩のところが少し緩くなっている。何度も着ている証拠だ。それでもその人の個性は、そこから感じられなかった。むしろ、個性のように香らせる人工的な匂いだけが、その服の周りにまとわりついていた。

残念な気持ちになりながら、制服を脱ぎ、衣装を身体に通す。そうすると、もっとその匂いが襲ってきた。周りの空気がどんどん、その匂いに変更されていく。自分の制服の臭いは、どこかに飛んでいってしまった。

自分は今から、一役を演じるのである。そういう気持ちになった。誰かが誰かに向けて開発した匂いをまとって、自分はあともう少しで、袖から踏み出すのである。

お腹にすうっと空気を入れる。


確認する。自分の冒頭のセリフだ。開演直後、舞台が明るくなったところで、自分は観客の前に立つ。舞台の真ん中に。そこで、長ゼリフを語るのである。

練習で難しかったのは、話し始めるタイミングである。暗いところから明るくなった、そのどこで語り始めるかである。暗いところから語るやり方もあれば、明るくなって、観客を見渡してから語る方法もあった。しかしこの演目の特色上、明るくなった瞬間に話し始めるのがいいと、演出家から指示を受けていた。

実際明るくなるといっても、瞬間ではない。点灯し切るのに一秒ぐらいの間がある。だから、同時にセリフを話すというのはできない。その一秒が経過するどこで、そのセリフを吐くのか。今度はそれが問題となる。難しかった。何度も何度も練習したが、結局、納得するタイミングは見つけられなかった。

僕は目を細くする。

 

じっとしていた。台本の最初のページを眺めながら、舞台が暗くなるのを待っていた。

反対側の袖をみる。台本越しに見える灰色。その袖から、同期の彼女が浮かび上がる。自分と同じように、袖から顔を出していた。

彼女は台本を持ってはいない。観客の様子を確認してもない。彼女が見ているのは舞台でもない。自分だ。自分の方を、彼女は見ている。向こうの袖からこちらの袖を結ぶように、視線を置いている。

彼女はちょこんと、座っていた。正座をして、じっと、こちらの方向を。

自分は台本を読むふりをして、チラチラ、向こうの様子を伺った。

いったい、なんだというんだろう。自分の容姿に変な見てくれでもあるのか。

変だと思った。ただ、袖に隠れようとは思わない。

僕は息を細くする。


鳴った。上演開始のブザーだ。ホール内の音楽が大きくなり、今度は小さくなっていく。暗くなった。

舞台監督が舞台の真ん中に立つ。スポットライト。劇中の諸注意について述べる。ケータイ電話の電源、私語を慎むこと、非常時の出入り口の場所等々。最後に、それではお楽しみください。

スポットライトが消えた。暗くなった。静まり返る。自分だ。自分の番だ。音を立てないよう、平然とした姿勢で真ん中に向かう。

空気は緊張感でいっぱいだった。これから何が始まるのか、誰も彼もわからないという気持ち。自分は真ん中に立つ。少し呼吸をする。出入口は固く閉じられている。その上の、緑色のランプ。そこに焦点を合わす。顎を少しあげ、両足を肩幅に開く。

待った。どれくらい待ったのだろう。そう思った瞬間…。

僕は、最初の一文を省いてしまった。

 

(続く)