【長編】舞台(1)
暗い。しかし真っ暗でもない。息遣いがある。一つではない。何人もの、いくつもの。一つはあっち、一つはこっち。ところどころに漏れる息。
何のために息を吐いているのか。舞台の上に立つ自分。それだけではよく分からない。もし、自分が向こうのように観客席側であったなら。
観劇する、開演される前のブザー音。薄仄かに明るかった舞台が暗くなる。観客は息を呑む。ガヤガヤしていた声がひそひそ声に変わる。舞台の暗さに吸い込まれる。舞台が、観客の息を吸収する。今、その舞台に立つ。これからセリフを吐いていく自分。
第一声が肝心だ。観客の顔が分からない、まだの未分明に、ゴソゴソと動いていく影。森の木々が、予兆を感じさせない風によって揺れ始めたような、やっとの呼吸を始める。蒸れていく息。
僕は深呼吸する。
明るい。目を細めてしまう。太陽の光ではない、光。人工的な光。観客に影を作り、舞台だけを照らす。
舞台に置いてあるどんな物でさえ、焼けていく。野晒しになる。白紙になる。
役者はそこにセリフを書く。観客は、その模様をみる。模様は、役者の動きによって束になり、左右上下に引っ張られる。
観客の視線が混じり込む。役者はその身体を持って、それらを一気に引き受ける。
今まさに、自分は見られている。頭の影から流れる線を、余すところなく寄せ集める。そのために大袈裟なことをするわけじゃない。少し遠くを見つめるのみ。席の中央から出入り口にかけて、溝を作ってやる。
そこには視線が傾れ込み、舞台の真ん中に立つ自分の方へ流れ込んでくる。そこで自分は口を開け、それらの流れを待っていればいい。
僕は、第一声を放った。
響く。その声は案外小さかった。いや、声量自体はいつも通りだ。声は出ていた。ただ、それが拡がる空間が狭かったのである。
ここは多目的ホール。生徒一クラスが体育の授業で使用される。だから当然、そこまでの大きさはない。けれど、もう少し響いていいはずだった。
聞いているのは観客である。この声の幅は、観客の一つの姿を現している。まだ温まっていない。何が始まったのかわかってもらっていない。自分が何を言ったのか、それをも聞き逃した者が何人もいた。
顔が熱くなってくる。勢いが過ぎたか。息を溜め込み過ぎたか。それとも、このホールの湿度か。
次のセリフを進める。その順序が確かだったことを確認する。それにしても変だ。練習で着ていた衣装が肌にベタついた。その間に、薄い膜が差し挟まれていく。
身体から汗が漏れていた。
垂れた。汗がズボンの裾を通り、足の方へ降り、靴下に入り込んでいく。それは靴底にまで届いたか。足裏には、隙間があった。くるぶしは、足元の不安定さを直感させる。
バランスを取るため、右足を前に出す。顔の角度が下にずれる。
遠くに、ホールの出入り口が見えてくる。脱出マークが光る、緑色の非常口が照っていた。点滅しているかしていないか、微妙な淡いが、端からぶら下がった紐とともに揺れていた。
風が入り込んでいるのだろうか。所詮学校の施設であるから、防音などないドアである。押せばすぐ開くようなドアである。
半透明なガラス張りで、向かいの下駄箱がうっすら見える。部活途中の生徒が通り過ぎる。ここからだと声は聞こえない。けれども足ははっきり見える。三本、五本。そのガラスからは、いつも奇数に見える。
僕は、舞台の右の方に移動する。
空いていた。三〇人の授業でいっぱいになる広さではあったものの、人が座るとなれば一〇〇人は入る。座布団は六〇個ほど残っている。
頼りげない座布団。家庭科で誰かが手縫いして作ったもの。そこに座っても決して心地良くはないのだが、ないよりはましである。
しかし、どうしてこんなに少ないのか。宣伝が足りなかったからか。文化祭でもないこの六月。そんな時期にやるのがまずかったのか。それとも、新入生歓迎公演という見出しが人を期待させなかったのか。
まあそもそも、ほとんどの者は部活をしているし、演劇部の公演などには目もくれないであろう。みな忙しい。いや、暇でも来ないだろう。じゃあ、今座っている目の前の者たちは何か。どういう者たちか。照明のせいで顔は見えない。けれど見ている。見られている。
一連の長台詞を吐き切る。
靡いた。カーテンだ。出入り口ドアの両端に追いやられたカーテン。風が吹き込んだか。
今日は風が大人しい。公演前のホールでは、風の気配が感ぜられなかった。聞こえてきたのは、そろそろと、足を滑らせてくる観客たち。舞台だけにほの明かりがついたその舞台には静けさが漂う。
舞台の袖で待機している自分。ずっと時計を見ていた。薄暗い時計。袖に明かりはなかった。隙間から差し込む灯りを頼りにする。
周りを見る。ある先輩は台本を確認している。ある先輩は、深呼吸して目を閉じている。ある先輩は、天井をただただ見つめていた。
自身初の公演。どうすればいいか分からなかった。それでも頭をよぎったのは。自分が演劇部に入部した理由だった。
演技中なのにまた、そんなことを考える。
開いた。出入り口のドア。ガラスに人影が映る。少なくとも生徒ではなかった。
先生のような、大人の姿であった。ドア自体は軽い。しかし入るのに気を遣って、ゆっくりと開く。
人一人分の隙間を作ると、光の柱を背後にその者の影が深く彫られた。
影の柱に向けて、セリフを続けた。ようこそ。そんな気持ちで迎えたつもりだった。安心して入ってきてください、まだ舞台は始まったばかりですから。そんな思いが伝わるといい。
自分が演劇部に入った理由も、それと似ている。人を迎えたい。普段、ろくに挨拶もできない自分が、唯一、しっかり挨拶ができる場所。空間。それがこの演劇なのだと思っている。自分の声を聞いてもらえる。聞いてもらっている。それだけで充分に貴重なのであった。
胸が高鳴る。
差し込んだ。先ほどのドアの光が閉まる三秒間、ホール全体に入り込んできた。それまで真っ暗だったホールの奥の方が、光に撫でられる。観客の背中は、余すところなく照らされただろう。
ドアが閉じていくにつれ、あの開いた瞬間が、朧げになっていく。あの光はもう二度とやって来ない。あの客が入ってくることももうない。
ドアが閉じる。ドアの方向に手を伸ばしたくなった。閉めたくなかった。あの光をそのまま垂れ流しておいて欲しかった。
寂しかった。寒かった。身体が肌寒い。外の光を浴びたかった。公演終了までまだ四分の一も進んでいない。もう出たいと思った。自分は演劇に向いていない。暗いところより明るいところがいい。でもそうすると、自分の声を誰も聞いてくれないではないか。こうしていある間に、ドアは完全に閉じていく。
袖に戻った。
通り過ぎた。袖の壁沿いに影が映った。その壁床には、換気のためのガラス張りがなされており、ホール横を通る足がみえた。四本、六本。
今、舞台には先輩が出ている。舞台慣れした声を聞きながら、目の前のガラスに映り込む影を待ち伏せていた。
自分はどんな陰を望んでいるか。どんな陰であれば嬉しいか。
足だとつまらなくなった。それを何度も見てきた。登下校中でさえもそれは変わらない。人の足元ばかりを見ていた。足が、地面から離れたり着いたりする。その人たちは浮いていた。するすると前に進んでいった。向かってくる人にぶつかりすらせず、自分たちのペースで、慣れたペースで、歩いてい進んだ。不思議だった。自分はどうして同じように歩くか。ついていこうとすれば、いつも知らないところでつまづいた。
僕は少し咳き込む。
流れ出た。観客席で笑いが起こった。先輩がうまくやったらしい。それまでにどこか強張っていた空気が柔らかくなった。
自分の演技は固かった。人を変に緊張させていたらしい。それは、自分が緊張してしまうからである。
対人関係において、いつも自分はそうだった。後ろについていくだけならまだしも、急に振り向かれるとビクッとする。何か悪いこと、気に触ることをしたのではないかと思う。自分が話すことは何もない。相手を喜ばせることはできない。構っていてもあまりいいことは無い。それでも、向こうは声をかけてくる。どうすればいいかわからない。とにかく、できる限りの反応をする。はいと言うか、笑うかする。そうすれば、なんとか話した風になる。それでも、嫌な焦りは胸に残る。しばらく遠くに目をやらないと、気持ちを落ち着けることができなかった。
心臓が締まっていく。
(続く)