1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】舞台(5)

頑張ってきた。たった二ヶ月の練習期間。これほど一生懸命、何かに取り組んだのは久しぶりだった。受験勉強以上に必死だった。

入部してから、いきなり脚本を渡され、主役をやってねと言われる。もちろん、脇役を選ぶこともできた。けれど、自分はそこまで言い出せなかった。言いたくなかったのかもしれない。やはり、目立ちたい部分があったのだ。

普段は声をかけることすらできない自分が、無条件に声を出すことができる。それが演劇なのだと思った。

照明のライトが自分に向けられている。その光に目を移せば、瞳が自然と絞られる。その光の中に、丸い輪郭がみえた。真っ白だった。太陽よりも。

それは見つめているのでもなく、見放しているのでもなく、ただそこに垂れているような目だった。

僕は瞬きをした。

 

色々なことがあった。そもそも、脚本など読んだことがなかった。だから、読むのに時間がかかった。加えて自分は国語が苦手なのである。特に、登場人物ががコロコロ変わるようなものはダメだった。おばさんは、お父さんは、おじいちゃんは、などなど、人の視点が変わっていくと、すぐ頭が絡まった。脚本など、その最たるものだろう。次々に話し手が変わる。その人の思いは全体の一部でしかない。むしろ、それぞれの思いが一つなぎになっているものこそ、物語であるのだろう。

でも、それだと息が詰まった。手元にある脚本に、余白がないか探した。そこに、自分の声だけを満たそうとした。多くのメモを埋め込んだ。殴り書き。ほとんど読めないし、実際に読んだことはほとんどない。書くだけで十分だった。書けば、その声は十分に保存された。

手元の脚本の端が、千切れて落ちた。

 

綺麗だった。目の前の先輩だ。恋愛感情ではない。憧れとも少し違った。何か、気持ちを涼しくしてくれる人だった。

昼休みに部室で練習していると、お、えらいねーと言ってくれた。特にそれ以上の言葉かけはないが、落ち着いた。これで今日は終わりだと思えた。つい頑張りすぎてしまう自分に、さっと悟すようなことができる人だった。

普段からよく話すわけではないが、必要なタイミングで、その人はそうやって働きかけてくれ田。静かな演技が特徴で、声がよく通った。通るというのは、人の心に通るという意味だ。声は決して大きくない。だけれど、その声を聞いた人たちは、さきほど聞こえた大きさに耳を澄ませる。耳に空いた小さな隙間を、逃さないようにと。

彼らは見つける。それまで隠れていたところに、ちゃんと風が吹くところを。

僕は、耳を集中させる。

 

ガサガサした。舞台袖からだ。黒い幕で覆われている袖は、基本的にはお客から見えないようになっている。ただ完全に覆ってしまうと、今度はそこから役者が出られない。そのため人一人分は空けておく。そのため、最前列からは袖の中身が見えてしまう。

その同じ隙間から、同期の彼女がみえた。着替えているらしい。学校指定の制服を脱ぎ、用意された服を手に取っているところ。彼女の髪は長い方だった。髪の先は背中の肩甲骨あたりにまで伸びる。そこから、下着の結びが、髪を割ってみえてくる。

結びが外れた。脇で押さえていたので、右端がぶら下がった。彼女は焦ることなく、結び直す。手慣れているようだった。それはよく外れるようだった。きっと彼女は、そうして何回も結び直してきた。買い替えることは考えず、何回も何回も。それは片手でできてしまうことだった。

気づくと彼女は、もうそこにいなかった。

 

よろしくお願いします。舞台監督が招集をかけた。先輩とのセリフ確認をやめ、ホールの中央に集まる。床に並べた座布団が少し乱れた。

今日のスケジュールが説明された後、一人一人が意気込みを語り、最後は顧問の先生から一言をいただいた。その間、しっかり聞けていたとは言えなかった。これから本当に始まってしまうことに対して、信じられない気持ちだった。

役者の人は衣装に着替え、スタッフは準備万端の顔つき。皆、本番に向かおうとしている。それぞれ積み重ねてきたことが、ここでようやくそりを合わせ、一つに向かっている。

ぼーっとした。自分がここにいないような気がする。ふと、黒い影が通る。ホールの横壁、上の窓。鳥が通ったのか。一瞬だった。あるいは、自分の瞬きだったかもしれない。

目が覚める。

 

青かった。窓から見えた景色は青空だ。広く、その奥行きが突き抜けていた。雲ひとつなかった。

その空ですら、これから上演されるような予感に満ちていた。そこには透明な雲がいくつも横切り、その残像のような輪郭のような、透明な動きだけが空を青くしていく。

しかし、自分には遠すぎた。あそこに秘められた色を、自分がそのまま演じることはできないと思った。一体どうすれば、あの空の青さを身体に収められるのか。

いや…と思っていると、大丈夫?と、後ろから声をかけてくれた。あの綺麗な先輩だ。心配をかけてしまったみたいだ。目の前には誰もおらず、ミーティングはとっくに終了していた。

すぐ振り向いて返事をしようとしたが、それでもさっきの色が頭を引っ張る。声がかかった後の間が、どんどん開いていく。先輩は、もっと心配した様子を見せていく。

すうっと息を吸い込んだ。

 

返事をした。安心した先輩は、初めてだから緊張するかもしれないけど、練習でも頑張ってたから大丈夫だよと、またそんな言葉をくれた。ありがとうございますと、お礼を言う。

先輩の方をちゃんと向いてなかった気がした。どこかぎこちなかった。

期待されていると感じた。皆の思い描く通りの劇ができるだろうか。練習通りにできるだろうか。

練習と本番は違う。本番には観客がいる。観客の前で演じたことはない。もしかしたら練習以上に、わざとらしく演じてしまうかもしれない。その時の自分はどうなるかわからない。わかるまい。誰にもわかるまい。

だから期待なんてされても、どうしようもない。そう思ったのかもしれない。礼を述べたときの口が、半笑いの形で残った。

耳が少し火照っていた。

 

定位置に着く。開場前の発声練習だ。各々がホールの壁沿いに並ぶ。そこから壁に面して、声を出す。

自分も発声を始める。不安定だった。声量が小さくなったり、腹から出ていなかったりした。

他の人も似ていた。皆、声が少し澱んでいる。よく通る先輩の声も、それがどこに向けられているのか曖昧だった。いくら公演をこなしているからといえ、やはり緊張するものは緊張するのである。

自分の場合はもっとひどい。あ、え、い、う、え、お、あ、お。腹に手を当て、発音する。しかしその音は反射してこない。壁にすら当たっていなかった。声が小さかったのではない。声が沈んでいっている。声がお腹から発していようが、その声は口から出ず、喉の方に引き返し、腹の方に戻っていってしまう。

太ももがピリピリした。

 

それにしても普通だった。同期の彼女だ。その発声は、他の人に比べていつも通りで、安定していた。

彼女の声は、飛ばす相手を想定している声だ。届けようとしている。いやその前に、声を出す前に、誰が目の前にいるのかちらっと想像する。だから、声がその人に届く。

今でも、彼女は誰かに向かって声を届けようとしている。それは誰だろう。自分ではないだろう。なら他の人か。

一体誰に届けようとしているのか。普段の練習でも思うことだった。彼女が自分の方へセリフを投げる。けれど、それが自分に向けられているとは思えなかった。しかし、彼女の声は確かに飛んでいく。

セリフを発する度、その直前にどこかを見る。けれどその先がはっきりしない。彼女はそれを無意識でやっている。というか、癖のようなものとして持っていた。

彼女の方を見る。

 

ロングスカートだった。そういう衣装姿。足元が隠れそうになるぐらいの丈の長さ、その色は紫色で、生地は薄い。

新鮮だった。そんな服を着た彼女を見たことがなかった。けれどだからと言って、その姿が遠い存在になったわけではない。反対に、近い存在でもない。

そこには、脚本上の役者になってしまった人物が立っていた。足は地面をついているけれど、うっすら隙間があるというか、軽そうだった。まるでスカートが気球のように、空気で浮いているようだった。

少し嫌気がさす。彼女に対してではない。そのスカートが、彼女の足元を隠そうとしていることが気に食わなかった。ただ衣装が悪いのではない。それを成り立たせようとしている脚本の設定が、自分には非現実的に思えた。やはりどこか、スカートに着せられているような感じがあった。

僕は、踵を踏み直す。

 

(続く)