1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】舞台(9)

ー僕ー

離れた。離れざるをえなかった。彼女が唾を吹きかけてきたからだ。

僕は彼女の首を絞めていたことに気づく。顔中が、シャワーより細かい感覚で満ちていく。こんなにも唾を浴びたことはなかった。そもそも人に浴びせかけられたこともなかった。

何をしたっていうんだろう。僕が彼女に何をしたのか。そんな、唾を吐きかけられるような悪いことをしたのだろうか。いや、吐かれたのではない。吹き付けられたのだ。まるで、カラカラに枯れた植物に、霧吹きで水をやるように、ゆっくりでもはやくでもない、淡いのあるスピードで、自分の顔は濡らされた。その粒と粒とは均質なものであったから、瞬時には気づけなかった。何が飛んできたのかわからなかった。

その粉は照明によって輝き、一瞬みつめてもしまった。

一歩退く。

 

気色悪かった。気色悪くなった。嫌だろう、人に唾をあてられるのは。何か馬鹿にされた気がする。でも、それは何らかの挑発であるかのような気もする。いわゆる、かかってこいよ的なやつだ。

それで僕はまた、いや、今度は怒り狂って、彼女の首を締めに行くだろうか。締めに行っていいだろうか。待て。それは罠だ。また彼女に向かってはいけない。自分の気持ちを彼女に向けてはいけない。彼女には、自分の気持ちはわからない。自分から伝えたこともない。けれどそれは、僕に気持ちがないことを意味しない。僕には気持ちがある。そう思えた。さっき、あの唾によって、僕はそう自覚した。

けれど僕は、それで強くなったわけじゃない。今も、足が震えている。動揺している。でもそれは、自信があるないの話じゃない。僕は、もともとが動揺している人間なのだ。

勇気が湧いてきた。

 

拭った。顔につくそれを、全力で拭った。顔の至る所に付着していた。頬はもちろんのこと、額や、髪の分け目、目尻や瞼、鼻の下や、上下の唇、そして顎にまで付いていた。

拭ってみてわかったことだが、彼女の唾は少し粘度があった。少なくともさらっという感じではない。拭い去ったあとも、少し残っている感じがする。水分ではない。何か、自分の顔の表面の空気だけが、まだまとわりついているような層。それがきっと、彼女の唾の秘密だ。粉のように細かい唾、空気をまとわりつかせるような唾。

彼女は今、僕の目の前にいる。彼女は僕の方をみている。のではない。彼女は、僕の方をみていない。彼女の目は、僕を捉えていない。彼女の目は、観客だ。観客に向いている。この明るい舞台より、暗い、緑色のランプだけが光る、洞窟のような客席に、向いている。彼女の目は、窪んでいた。

僕はもう、みなくてよくなった。

 

興奮してきた。不思議なことに、さっきまで気色悪いと言っていたにもかかわらず、高揚するものがあった。嬉しいというわけではない。嫌な気持ちではある。けれどそれ以上に、どうにかしてやろうという気持ちになった。

そう思ったのは、本当にいつぶりか。僕は今から、人に何かをしでかす。目の前の彼女に、彼女が困ることをやってしまおうとしている。これは、挑発に乗るのではない。彼女に怒りの気持ちをぶつけるつもりはさらさらない。彼女を僕は相手にしない。彼女から離れるために、僕は今一度、彼女のために、大きなパフォーマンスをしようと企てている。その気持ちは、いたずらっ子の気分のそれである。

そう、僕は今から、いたずらをしようとしている。観客にはわからない。というか観客など、もう僕にはどうでもいい。

さて、用意ができた。

 

吹き出した。僕は、口に溜め込んでおいた唾液を彼女に拭き濡らした。僕の唾は、彼女のように細やかじゃない。色々な大きさになっている。しかも、あまり透明な色じゃない。だから照明のライトに当たっても、とりわけ光るものではない。僕の唾は、彼女の顔を包む。けれど、顔全体に均しく広がったのではない。付くところは付いて、付かないところは付かなかった。
けれどこれでよかった。やってやった。人に対して、こんな無礼なことをしたことはなかった。僕は、そんなことを頭で一瞬よぎったかどうか、そんなこともどうでもよかった。

僕は、自分の唾の散らばり具合を、その拡がり具合を、何度も何度も、思い出していた。これまでずっと忘れていた光景を、今一度、取り戻したかのように、残像のフィルムが擦れて消えるまで、何度も回した。

眼光が、どんどん開いていく。

 

見えない。相手の顔が、観客がどうなっているかはわからなくなっていた。ぼやけている。自分の見ている風景が、ぼーっとしてくる。

観客は引いてるだろうか。これが僕の初出演だというのに。

台本にはないことである。アドリブだ。彼女もそれをわかってやったのだろう。つまり、彼女が唾を吐いたのもアドリブ。いや、彼女から唾を吐いたのだ。

でも僕はずっと、こうしたかったんだと思う。今朝眠れなかった原因は、このためにあったと思う。唾液が、ずっと口にあった。残っていた。耳にまで溜まっていた。

それは僕が、このタイミングで唾を吐きたかったからだ。予定していたからだ。

練習している時からずっと、これを待っていた。だから取っておいた。新鮮さは、本番でしか出ない。

耳鳴りがする。

 

立ち込めてきた。臭いだ。唾の匂いが、ようやく鼻の穴にはいってきた。

臭い、臭い臭い。喉の奥から出てくる、これまで人に明かさなかった臭い。口が臭いからとか、歯磨きしてないからとか、そういう臭さではない。

きっと人間の喉というのは、基本的に臭いのであって、これまで食べてきたものの総決算になっている。要するに、食べたものの香りが、口の中でさまざまに混ざって、それらは服に染み付くように、喉の奥にしみているのだ。それが唾となって、僕の顔に飛散したのである。

水は臭いをよく運ぶ。粒の中にエッセンスを入れ込んで、着地するまで封じ込める。そして、それが地面に当たった途端、はじけるのだ。はじけて、自分の臭いに相手を仕立て上げるのである。僕は、僕の唾によってそれを拒んだ。

また唾液が湧いてくる。

 

吐いた。唾だ。いや、セリフだ。いや、両方である。

僕は、セリフを続けた。

あなたはさっき、知らないと言った。でも何を知らないのか。知らないということで、あなたは知っているふりをしたいだけじゃないか。知らないなら知らないというのが道理ではないか。

それをわかっていても、知らないというのなら、僕はもうあなたとは付き合ってられない。いや、最初から付き合ってなかった。知らなかったんだ。君が、君がそこまで自分にこだわっているなんて。

僕はあなたを大事にしたいと思う。でも、あなたのなかに僕はいない。だからいつも、あなた自身が、あなたを盗り上げてしまう。だから、気持ちなんて通じるはずがないし、最初から、僕の気持ちなんてわからない。それを無理に、あなたの気持ちで埋めないで。

 

涙、涙が溢れてきた。

踏んだ。僕は子どものように、足で床を鳴らした。子どもが駄々をこねるように、何度も何度も、床を足で打ちつけた。足の震えを抑えるように、絶えず、膝を拳で叩いては、その足で地面を踏む。大きく膝を曲げて、勢いよく踏む。

僕は悔しかった。なんで、あなたがそうなってしまうのか、なんでいつも、自分の気持ちに満足してしまうのか、なんで、自分の気持ちがいつも満たされていると思ってしまうのか。

それだと、僕が入る余地がない。僕は、あなたに興味を持つことができない。目の前にいるあなたに、僕はどうも思えない。でもあなたは、僕をどうにかしようとする。

ずっと。練習の時もずっと。申し訳ない気持ちすらあった。何にもしてあげられないんだから。あなたの気持ちに沿うことだけはできないのだから。

涙が頬を伝っていく。

 

響いた。足で打ちつけた床が、どしん、どしん、と音を鳴らす。その音は小さく、おそらく、まだ観客には聞こえていないぐらいの大きさで、鳴っている。何度も何度も踏みつけては、その音が床の下にあるかを確かめる。

このホールができてから、いったいどれくらいの演劇が行われてきたのか。どれくらいの舞台が設置されてきたのか。どれくらいの人の足が、この床を踏みしめてきたのか。

僕はその記憶を、音として聞けるのではないかと思った。

聞きたい。聞きたい聞きたい。僕は一心に、踏む、踏む。

足を落ろす度、視界が揺れる。視界の枠自体が、ぐらっと、遠いとこから地震がくるように揺れる。少しずつ、ヒビが入る。亀裂が視界に入ってくる。ライトがそこへ入り込み、光の線が入る。

どんどんどんどん、音がする。

 

(続く)