【長編】舞台(8)
嫌そうだった。彼の顔。面倒臭そうにしていた。
私が遅れたのがそんなに?まあ、初めての舞台だし、そう思うのも無理ないけど、それは私だって同じだし、私も緊張してる。外から見たら、私はすごく落ち着いているように見えるけど、結構緊張してるんだから。もちろん、あなたよりは緊張しないかもしれないけど。
でもそれって、私の方が緊張に意識を向けないだけ。もし、もしよ、あなたと私が同じぐらいの鼓動だったとして、私はその心臓よりも、私の出している声の方に意識がいくの。だから意識は外なの。でもあなたが向いているのは、ずっと自分の身体。だから緊張しやすいし、テンパリやすいの。それはそれで大変でしょう。だから、声もあまり届かないのよ。身体の振動を大事にしちゃってるんだから。声が振動しないと届かないでしょ。
出てきた袖の方に顔を向ける。
イライラしてくる。なんであいつのためなんかに、色々と考えなきゃいけないの。本番中なのに。
本当はね、あなたのことまだよくわかってないというか、あんまり好きになれないのよ。いつも自信なさげでさ、いっつも下向いて歩いてるじゃない。なんでそんなに弱いフリをするの
さっきは声の出し方が悪いとか、演技が不自然だとかって言ったけど、基本的に私、あなたの演技は上手だと思っているから。声がうまく出たり、身体の動かし方が緊張に負けなければちゃんと、心に響く演技ができるから。
だからさ、その顔の裏にさ、その頼りない表情を見せないでほしい。あなたは優しいから、遅れた私のせいとかって考えずに、何か、あなた自身の問題として捉えているんでしょう。そんなに自分を悪者にしないでほしい。私の方が悪い時だってあるんだから。
息が荒くなる。
睨みつけらる。あれ、もしかして本当に怒ってる?待って、遅れたと言っても、そんな数秒でしょう。悪いっちゃ悪いけど、練習通りではなかったかもしれないけど、どうしてそんな目をするの。
あ、演技か。そういう場面ではある。でも、それにしても、ちょっとリアルだった。たまたま今の場面が怒り気味の内容だから、お客さんには違和感ないだろうけど、それにかこつけて気持ちぶつけるのヅルくない?
まあ、あなたのことだから、セリフを通してしか気持ちをぶつけられないんだと思うんだけどさ。
私は違うよ。私はしょっちゅう、自分の感情ちゃんと出してるからさ。私は自分に正直。あなたみたいに、自分を疑ってばかりいない。私は、今横に立っているあなたよりも、ちゃんと舞台に立ってる。そして、お客さんの方を、ちゃんと見てる。
睨み返してやった。
逸らす。あいつの顔なんて見てらんない。これ以上見るとこっちもイライラばかり。だから、目を合わせないようにする。
私に自分のことを考えてる暇はない。今はお客さんに演技をしているの。あなたに演技をしているのではないの。なんで、そういう時だけ本気になるの。普段はそんな感情見せてくれないじゃない。
あなたの本当の感情ってどんなものなの。あなたは、あらかじめ用意されたセリフの中でしか、自分の感情を伝えられないの?あなたそのままの感情ってないの?
私の方はいつも、私そのままの感情だよ。セリフも、まず私の感情があって、そのセリフを出しているつもり。だからさ、まず自分の気持ちだよ。相手がどうこうじゃなくってさ、自分だよ自分。だから、あなたには自分がないように見えるし、あなた自身もそう思っているんでしょう。そうじゃないよ。
出入り口を向き、緑色ランプを凝視する。
いた。母親だ。ランプの近くに母親が来ていた。腕を組みながら、まじまじと見ている。
母親だとわかったのは、緑色のランプの明かりで顔がうっすら照らされていたからだった。観客の中で、母親だけがぼんやり緑色。
一瞬、母親だけが見に来ていると思った。私は、声をその母親だけに、一点集中させようと思った。他の観客なんか無視して、ホール全体に響かせようなんか思わなくって、とにかく、私の声の届く先、そこに、母親がいる。その事実だけを意識しよう。
そうすれば、隣で弱々しい顔をしてるあいつのことも考えなくて済む。どうしていつもいつも、あいつのことをそんなに考えてやらきゃいけないの。面倒臭い。どうしようもない。知らない。私は、今私で精一杯なんだから、まずはお母さんに、ちゃんと、私やっているよってところを、見せるんだから。
「そんなの知らない」と、私は言った。
見てくる。あいつが、じーっと、私の顔をみている。
もうあの怒りは感じられなかった。ただ、表情だけが怒りのままで。
彼の気持ちはやっぱりわからないまま、顔の皺だけが、目の前に残っている。
諦めたんだろう。そう思った。自分の気持ちが湧いてきたのに、それがいままさに、自分の声として出ようとしてたのに、それを諦めた。だって弱いから。怖くて、人前でそんなの見せれなくて、恥ずかしいから、隠れた。
彼はそうやって、なんどもなんども、しまい込む。しまいこんでしまいこんで、それで作られた皺だけが、表情に反映される。だから表情はうまい。でも、からっぽ。
私は、そんなことない。私は、心に表情をもっている。だから、そんなはずない。私も、あいつと同じだなんてありえない。
目尻が少し熱くなる。
動く。彼の顔がじっくりと、舞台の方に向いていく。私も舞台の方をみる。
ホッとした。ホッとしてしまった。何にホッとしたのか。自分は何に動揺しているのか。自分も、あいつと一緒だっていうのか。違う。そんなの違う。
明確に違うのは、その自信だもの。私には自信がある。あいつは自信がない。それでも十分な違いじゃないか。でも、でも。
私はあまり、人に演技が上手いと言われたことがない。別に自分が下手だとは思ってない。ただ、直接言われたことがない。ちゃんと人に伝わっているのはわかる。と、思っている。でも、それが本当なのかわからない。
逆にあいつは、声をかけられ、褒められる。私は、声をかけられない。だから、自分で声をかけること、そればかり意識してきた。
私にだって、声をかけてほしい。
緑色のランプがぼやーっとする。
横にやる。彼の目が、横目に私をみている。黒目だけが、私の方を向いている。
その表情は一瞬だけ、色々な気持ちを表した。恨み、妬み、怒り、羨み、嫉み。そして最後に出てきた感情は、無。
今、彼の左目だけがみえる。その目は、金魚の目のように、私の方を捉えている。では反対の目は。
私はとても気になった。気にするしかなかった。気にさせられているような気がした。
もし、右目が正面を向いていたら。それは一体どんな表情なのか。
あるいはもし、その目も私の方を向いていたら。
ゾッとする。叫びたい気持ちになってくる。
どうしよう、向いていたら。向いていたらどうしよう。
私は彼の正面を向く。
絞める。彼は私の首を掴んでいた。さっきまで遠くにいたのに、今は目の前にいる。
彼は、その細い腕を伸ばし、その手で私の太い首を掴む。次にその腕は曲げられ、私の首と体とが、一緒に引きつけられる。
苦しい。彼は、迫真の演技と言っていいような、セリフを吐く。これまでの練習でも出したことのない大声で、会場全体を響かせている。きっと、観客は驚いていることだろう。
耳鳴りがする。キーンという音から、だんだん範囲が狭まっては、消えたかと思う。すると、透明な水の中にいるような、ダクダクとした音が聞こえてくる。
苦しい。息ができなくなってきた。でもまだ、まだだ。私の足は、ちゃんと舞台に立っている。まだなんとかできる。
私はなんとか持ちこたえる。彼が吐き切るまで。最後のセリフが出るまで。
待てる、待てる待てる。
吐きかけた。胸から込み上げた。彼がセリフを終えた。次が、私の番…
私はそれまで溜め込んできた唾を、全力で吹きかけてやった。それは、照明によって金粉に光り、あいつの顔にかかった。均等にまぶされるように、化粧水のように、そこにいる相手の空間を、湿度でいっぱいにした。
顔の穴という穴に入っただろう。目、耳、鼻の穴、口、皮膚の表面。
首を掴んでいる手が緩んだ。やっと息ができる。危なかった。ギリギリだった。でもそのギリギリが、私の唾を生んだ。
相手は正面にいる。呆然としているのか、まだ立っている。そのとき、初めて彼の顔をみた。彼の左目は、まだ左によったままだった。そして、右目。右目は一体どうなっていて…
右目は、反対、反対を向いていた。その顔は金魚のように、両端に寄っていた。
「はなして!」と、私は叫んだ。
(続く)