1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】舞台(3)

落ち着かなかった。開場三〇分前、ホールの外での自主練。思うように身が入らない。
初めて人前に舞台に立つ。観客に伝わる演技というものがどういうものか。そのことばかりが不安だった。

新入生歓迎公演という理由で、大役を頂けたことは嬉しかったが、その分プレッシャーもあった。だから夢中で練習した。部活が終わっても、家に帰って復習した。夜中にまで渡ることもあった。二階で寝ている家族を起こさなぬよう、声をひそめ、代わりに身振りを大きく練習した。

翌日の部活では褒められた。練習したその分の工夫が認められた。毎日が楽しかった。自分は成長している。

ただそれは、部活での感じ方であって、一般客からみられる自分がどんなふうに映るのかは分からない。不安を隠すため、またセリフを読み上げる。

口調が早くなっていく。


落ちていく。自分の声が、廊下から落ちる。ここはホールの入り口すぐ、階段を登った渡り廊下である。ここから、校舎の二階につながっている。

滅多に使われない露出した廊下。日頃の練習も、そこを使うことが多かった。校舎とホールの隙間にあるという設計から、ちょうど心地いい風が吹く。

けれど今日は風当たりが強い。声を出しても、伸びてこない。すぐ下に落っこちてしまう。後ろから風が吹いているのだ。たまに突風が吹いて、身体がゆらっとする。

場所を変えたいと思ったのが、ここよりいい場所を思いつかなかった。

階下を通る生徒が、自分の声に気づいて上を向く。それくらいなら気にならない。特にこの本番前は。

セリフに集中したい。しかし、意識が散らばってしまう。雲の動きが早くなっている。

胸から何かが込み上げてきた。


立っている。ぼーっとしていた。開場まで後何分だろうか。腕時計を見る。まだ時間はある。どうしても確認したい場面がある。そこだけは再度やっておきたかった。

彼女と二人だけのシーン。最初のうちは、お互い顔見知りが激しく、かなりぎこちないやりとりだった。セリフを覚えていないという理由もあったが、お互いの発する声が、相手に届いているのかが分からなかった。だから、相手の反応を伺い合っている感じなっていた。

自分の声が相手の身体に染み込み、そこから声が反応として出る。この染み込みがないと、場面が成立しない。棒読み的な演技になってしまう。だから練習を重ねていく度、身体は声に応えられるようになる。カチカチに立っていたのが、ゆったりしっかりと、立つことができるようになる。しかし今は、無理に立とうとしてた。

重力が、足だけにかかってた。


引き摺る。右足を右に動かし、左足が遅れついてくる。今度は左足を左に。しかし、左足は鈍い。右足が先に動く。右足は左足にぶつかって、つまづく。

左足はゆっくりとしか動かない。地面に張り付いたようにゆっくり。左足の感覚が薄れている。痺れてきているのか。

練習中によく言われたのが、自分の姿勢である。左足に重心を置く立ち方をしているとよく指摘された。それだから、きっと左足が痺れてきている。

そんな自分に対し、彼女はよく褒められていた。スーンと立っていると言われていた。彼女のそれは、ほぼ仁王立ちだ。肩幅を少しはみ出た位置に、足がぽつぽつと置いてある。

しかしそれは不自然にみえた。足先がいつも前を向く。片方でなく、両足がである。そして首と体だけが、左右上下に回転する。

僕も仁王立ちをしてみた。


向いていなかった。左足が痛くなってくる。前の姿勢に戻した。腰を右斜め下に入れ、肩は全体的に左、ほんのり曲げた「く」の字のような姿勢にし、左足の重心をちょうどにする。これが落ち着く。右足も左足も、その足先は別々の方向を向いている。右先は六〇度の位置、左先は一一〇度の位置だ。当てどないばらつき感がピッタリくる。

階下に学生が通る。青いバックを背負う学生。キーホルダーは、アイドルか何かのキーチェーン。速足だった。ハキハキしている。きっと陸上部だろう。後ろ髪を一つに結ぶ。

右手首には、ゴミ製のバンド。ピンク色と青色のものが交点を結ぶようにはめられている。歩く時の腕振りで、手首の周りをゆるくゆるく動いていた。よく落ちないでその位置を保っている。開いた手のひらを拳で小さくしてしまえば、それらはするりと抜けてしまだろう。

僕は台本の持ち手を整え、手首をみる。


折れていた。台本が折れ線だらけでしわくちゃだ。あえて揉み散らかされたような気さえする。メモした文字のインクも紙に滲んでいる。はたから見れば非常に汚い。しかしだからこそ、余計に愛着が湧いた。皺が増えていくほど、この台本を大事に使ってやっている、そんな気分になれた。

部内では、自分以上に汚なくする者はいなかった。しかしそれは、扱いがテキトーだからではない。練習中に台本を放り投げたりして、粗末にすることは一度もなかった。ただその代わり、セリフ練習中に、絶えず折ったり開いたりする癖があったのだ。あとは丸めたりもする。そうすると、気持ちが安定するのだ。

台本を覚えるのに、そういう手首をすることが必要だった。そのおかげか、手首の関節が鳴るようになった。それも右手首だけで、時計回りで鳴る仕掛けになっていた。

ふいに、自分の首をさする。


寝ていない。初めての本番ということもあり、昨日の夜は寝れなかった。ベットには着いていた。しかし頭では、何回もこの日を上演していた。冒頭から最後までの一連の流れを、何度も振り返る。

瞼を閉じていれば次第に寝るだろう、そう思われたが、真っ暗な視界には、いつしか照明があたり、舞台が始まってしまう。自分が出てくる。それを見ている自分もいる。その役者の身体には間違いがないか、つぶさにみた。実際に眼球も動いていた。

目が開いてしまい、クリーム色の天井がみえた。それくらい緊張していた。枕に置いている首は、〇・一ミリメートルほど浮いているようだった。首がやけに重い。寝違える痛みとは違う。ずっと、糸に引っ張られているようだった。その糸は、どこへ垂らされていているのか。何せそれは、自分の首から出てきていたのだから。

僕は、欠伸ができないままだった。


凝っていた。首を動かすことはできた。左右のみだが、できないことはない。しかし引き攣る。そのままにする。今余計に動かすと疲れるだろう。首筋は緊張しているが、伸びた状態が維持されているような感じでもある。

朝からずっと頭が冴えていた。普段は規則正しく寝るから、こんなことは滅多にない。自分は、ぐっすり短く眠るタイプではなく、浅い睡眠を長く続けるようなタイプだった。だから、寝れない事態は久しかった。珍しかった。寝れないから、余計にいろんなことを考える。パンフレットの自己紹介文のこと、来る客の種類のこと、本番の緊張について、明日の天候について、自分が演劇をする理由について。

きっともっと考えたことだろうと思う。ただそこには、お客さんに喜んでもらえるか、などということは一回もなかった。

そろそろ、ホールに待つ客がみえてくる。


緊張する。お客が来るんだと思った。自分の演劇のために、人が集まるんだと思った。いや、自分のためだけではないし、自分のためでもないだろう。演劇を見たいと思う人が来たのだ。
そこに並んでいたのは、誰かの保護者ではなく、学生だ。きっと、これまでも何回も来ている人だろう。玄関前で、じっと待ってる。すると先輩が、玄関を少し開けて顔を出し、開演までもう少々お待ちくださいと言葉がけをした。

自分も自主練を終わりにして、そろそろ行かなくてはいけない。自主練はこれで終わり。悲しい心地がした。もう戻ってこれないような。

このまま階段を下り、ホールに戻れば、もう二度と今の時間はやってこない。入部した一ヶ月半が全て消えてしまうような気がした。風が吹く。肌を撫でる。

僕は、ようやく階段を降りた。


チラッとした。ホール入り口の向かいの下駄箱。その隣にある掲示板に、ポスターが貼ってある。それがめくれていたのである。養生テープで貼ったからだろうか。四隅に貼っていたが、上の右端が剥がれて垂れている。みっともないので、戻しにいく。

途中、グラウンドから声が聞こえてきた。サッカー部だ。ボールを蹴る音が聞こえる。その音は連続して響き、試合をしているわけじゃなさそうだった。ポスターの前に立ち、左手で左端を押さえながら、右手で中央に手をやり、壁を押さえ、右端まで持っていく。粘着力はまだ残っていたので、うまく張り付いた。

ポスターには、演劇のタイトル名や、役者、スタッフの名前が書かれている。もちろん自分の名前もある。ただその大部分は、公演の趣旨を要約した絵だった。自分のような人が立っている。

玄関で待つお客に会釈し、ホールに戻る。