1ルーム

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毎日、土日の作り方 第三章:ドアから落ちた郵便

          

 

送り主=宛先の封筒


 平日である水曜日には、ふと意味なき言葉が出てきます。仕事に集中しているのか、していないのか、わからないような一瞬がある。今何考えていたのだっけと、なる瞬間がある。中身の透けた、透明な言葉が自分の中に入ってくる。
 その感覚はまるで、家にいながら、その玄関口のポストに手紙が入った音のようです。郵便を運んでくる音には気づかなかったが、ポストに入れてくれた時の音で気づく。優しく、コトッという音がします。
 届いた手紙は、封筒に入っています。会社からの封筒のようです。これは開けないとと思いながら、封を切る。しかし、中身は何もありません。空っぽです。宛先を見ても、自分の住所と名前が書いてある。あれ、何かの間違いか。
 そうやって封筒を捨ててしまいます。その裏には、自分の住所と名前が書いてあるのにです。その封筒は、会社の封筒を使っていましたが、送り主は自分でした。

 


土日の流れに運ばれる封筒


 水曜日にやってくる声は、会社に関する言葉ではあるものの、自分が自分に声をかけるといったような、頭の中の声です。その声には、中身がない。声としては、もしかしたら音もないかもしれない。かすれ声かもしれない。
 その声をちゃんと拾えるかどうかです。その声は、平日の間に出てくる。平日の一番中途半端なところで出てくる。土日に向けて張り切りすぎないタイミングです。土日のことをその時には考えない。
 月曜日は過ぎた土日のことを考える。火曜日は、土日のことを一旦忘れる。木曜日は、土日のことを少し念頭に置く。金曜日は、これからの土日のことを考える。だとしたら、水曜日は、土日のことを知らないまま、土日のようなことが浮かんでくる可能性がある。
 土日のことを平日に考えすぎてしまうと、仕事になりません。それに、土日の気持ちは、平日の気持ちとは速度が違います。平日は頑張るという気持ちで、勢いです。土日は、あの土曜日の13時に代表されるような、緩やかな気持ちです。だから、なだらかな坂のような、じわじわ形成されていく姿勢です。なので、平日の間中、実は、土日に向けた心の姿勢が横渡っている。自分が座っている椅子の下で、何か流れているのです。それが、よく現れるのが、その水曜日なのです。水曜日にやってきた封筒は、土日の流れにこっそり運ばれてきたようです。

 


封筒は入れ物


 では、なぜ水曜日にその封筒が来ても、捨ててしまうのでしょうか。一つは、中身がないからです。例えば、営業先の人の名前とかをなぜか考えていたことに気づいても、別にどうってことありません。それだけでは意味がわからないからです。
 そしてもう一つは、実際にその言葉を聞くことを避けているところがあることです。なぜ避けるのでしょうか。営業先の人の名前をさっき考えていた。それをどうしたらいいのかわからないからです。意味がわからないというよりも、その少し先に、不安があるのです。
 果たして、その人の名前が気になっているのでしょうか。その人の案件については、もう片付いたはずです。しかし、なぜ名前が出てくるのか。それは、仕事と関係なく、自分の中で残っていることがあるからではないか。
 例えば僕の経験であれば、ある方の名前が浮かんでいた時、別にその人には何も連絡することはない。でもふと浮かんだんです。それで、よくよく考えると、その方はお店を持っていて、魚を販売している。僕はその魚を食べたいのだと気づきます。まあでも、そんな自分に気づくことはなかなかできません。その人の名前と、その人のお店という事柄とは、すごく離れているからです。封筒の中身を探しても何もない、むしろ封筒は、そこに関係ある何かを入れるための入れ物なのです。

 


マンホールの地下に流れる水


 そんな封筒が届いて不安になってしまうのは、仕事に関係がないことを考えてしまう予感がするからです。浮かんだ言葉の中身が空洞であると、なんだ意味無いのかと思う自分と、何かそこに入れたいと思う自分が出てくる。ただ、今は仕事中ですから、余計なことはしてはいけない。だから、何か入れようと思う自分はなかったことにしたい。
 そうやって、意味なき声にフタをしてしまいます。そしたらその穴から声はしなくなるわけなので、もう忘れてしまえる。意味のない地面に戻ります。マンホールと化すのです。そうやって、いくつも忘れることで、自分が歩く仕事の道には、いくつもマンホールができていく。
 ですが、マンホールが増えれば増えるほど、足の踏み場がマンホールだらけになります。マンホールはしっかりしているようで、その下は空洞です。そこでは、何かグラグラと揺れているような感じがあります。そこに、土日の気持ちが流れている。
 ならいっそ、仕事の合間を縫って、そのマンホールを一つでもいいか、開けてみませんでしょうか。年月が経ってしまうと、固くなって開けるのも大変です。まだでき始めたマンホールだったら、開けやすい。地下に流れているのは汚水ではありません。

 


仕事の寄り道を見つけてしまう


 とはいえ、仕事の以外のことを考えるのは憚られます。ですが、そうやって考えること自体を憚っているともいえます。つまり、考えるか、考えないかで捉えてしまっている。
 でもよくよく考えてみると、頭の中の声は、出てきてしまうものです。それは、ある意味自分が考えているからです。考えないのでも、考えるでもない。考えてしまうものです。なので、事実は異なっている。
 仕事に関係のないことを考えてしまうのに、考えないとするって、すごく窮屈です。そこに自分の知らない気持ちの源泉があるのに、みなかったことにして仕事に向かうのは、しんどいです。
 ですが、仕事をしているのに、寄り道する、そこを皆さんは憚っている。仕事以外のことを考えないようにしたいのです。でも、考えてしまいそうになる。この問題は、考えるか、考えないかの話ではないのです。考えてしまいそうになる自分をどうするかという、具体的な問題なのです。仕事中、寄り道を見つけてしまってから、どうするかということです。

 


寄り道先の友だち


 寄り道の方を覗くと、魅力的な空間があります。ちょっと古めかした喫茶店があるかもしれない。古い苔でいっぱいのお寺があるかもしれない。人によって、さまざまにあります。ついつい入って行きたくなる。
 ただその入っていく角には、看板が差してあるのです。それは、浮かんできた言葉と、左矢印、右矢印と書かれてある。左矢印に行くと、寄り道に進むことになる。右矢印に進むと、このままその道は忘れて、仕事を進めることになる。
 右の道の先は、ビルが並び、その窓には、自分の仕事場がうつっている。そこには自分がいます。背中を曲げて、パソコンに向かい合いながら、時々電話にも出ている。
 対して、左の道の先には、気になる場所はあるものの、自分の姿はありません。ですが、遠くから声だけ聞こえます。おーい、おーいと呼んでいる。その声は、自分と似た友だちが、呼んでいるような感じです。寄り道の先には、自分の友だちが待っている。

 


分岐にずっと立っている


 その寄り道の友だちは、職場の同僚とは関係が全然違います。同僚とは話を合わせる必要がありますが、寄り道の友だちとは、好き勝手話していい。自分の好きなことだけを話していいんです。
 職場の仲では、そんなことできません。誰もが、最近のニュース、芸能人の話題、誰かの愚痴を言っています。それらは、仕事上の自分でしか関係がない。家にいる自分には、そんなことは言いません。
 仕事上の相手がいるから、それ用の話をするのです。自分のことなんて話しません。仕事以外の話をするのは、仕事の邪魔になるからです。雑談は、仕事のための話です。それは、仕事に向かう息抜きのために必要は話です。ですが、自分の漠然と抱えている不安なんてものを、話にすることはありません。
 もし、何かの拍子で話したとしても、それを自分ごととして受け取ってくれません。もしかしたら食いついてくれるかもしれない。アドバイスもくれるかもしれない。でもそれは、結局、その人にとってのことになってしまう。自分のことからは離れてしまうのです。仕事の道に進んで後ろを振り返ると、寄り道の分岐のところに、ずっと自分が立っている。

 


投げて残った自分


 なぜ自分を置いていってしまうのでしょうか。まず、相手に話しかける時には、ある程度言葉になっていないといけません。そうしないと、伝えられないからです。
 例えば仕事中、ふいに営業先の名前が浮かんだとしても、それがなんなのかすぐにはわかりません。だからまず人に話す必要が出てこない。隣のデスクの人に、「今さ、急にこの人の名前が浮かんだんだよね〜」とかって言っても、はてなマークしか返ってきません。
 それか、もし、自分がなぜその人の名前が浮かんだのかがわかっても、それは全く仕事に関係ありません。そんなことを急に人に言っても、これもまたはてなマークです。仕事に関係ないし、雑談でもない。自分が勝手にそう思っただけの話です。
 仮に言ったとします。「さっきこの人の名前が浮かんでさ、そしたら自分、魚を買いたいと思ったんですよね。」と。もしかしたら、その話題に乗ってくれるかもしれない。でも、それはあくまでどんな魚を買うという話です。魚を買いたいと思った自分の話ではない。つまり、誰かに何かを話すと、その話題を自分から投げてしまうのです。だから相手は話に入れる。自分もまた、その話に入り直せる。ですが、話を投げた自分はもう置き去りになってしまうんです。

 


特別な友だち


 自分のことを置き去りにして、そのまま、自分が投げた話に乗ってしまう。そうすると、置き去りにした自分を忘れてしまいます。一度話に入ると、もう相手の方しか見なくなる。後ろを振り返らなくなる。
 自分が一瞬、気になった言葉も忘れてしまいます。分岐はなかったことになる。相手と話すことになるからです。分岐の時は、自分と自分の中にいる友だちとの一瞬の交流だったからです。関わる対象が相手になった時、もうその友だちの事は忘れてしまうのです。
 それでは、友だちがかわいそうではないでしょうか。仕事中、ふいに自分が気になった言葉を、人に話すとか、どうでもいいかと思って捨ててしまうのは、もったいないのではないでしょうか。そこには、もう一人の知らない友だちとしての自分が、待っていたのにです。
 友だちの声としての言葉は、自分で捨ててしまわず、相手に話もせず、自分の中で取っておきたい。いますぐ、その意味がわからなくてもいいのです。とにかく、その言葉だけは忘れないでいたい。それは、会社の同僚とは違う、特別な友だちです。

 


寄り道は延び道


 その友だちは、いつも向こうから誘ってくれます。言葉が浮かぶとは、その友だちからの誘いです。対して、会社の同僚へは、自分から話をしなければいけない。つまり、こちらから誘わないといけない。もちろん、同僚から誘われることもありますが、いつでも誘われることなんてありません。
 友だちは、勝手にこちらを誘ってくれます。いつでも、おーい、おーいと呼びかけてくれます。自分は、その声が聞こえる分岐道に気づくだけです。ならば、もう少し、その頭の声を大事にしてもいいのではないでしょうか。
 寄り道は楽しいものです。小さい頃、小学校の下校時に、いつもとちょっと違う道で帰ったりしたものでした。最初は勇気が入りました。知らない道ですから。通ったことがない。わからないものは怖い。
 ですが、通ったら通ったで普通の道だったんです。これまで知っていた道のように、コンクリートの道でした。でも、特別感がありました。風景としては何の変わり映えもなかった。けれど、自分が歩くこの道は、遠くの方までずっと続いている、すごい延びを持っているように感じました。寄り道は、延び道なのです。

 


心の音はゆっくり


 寄り道したい道は、実際にもふいに現れます。まず前提として、その道は、自分が歩き知っている道の脇でないといけない。いつもの通りとか、もう先に何があるか見えている道でないといけない。そこを歩いているときに、視界の端にぷかっと、隙間のような道が出てくる。
 仕事でも、意味のない言葉が出てくる時には、同じようなことが起きている。このまま今日もこの仕事をやるかとか、あーこの仕事はこういうパターンで対処できるやつねとか、今週もこんな感じで仕事よね〜とかって思ったりする時に、仕事に関係なさそうな言葉が聞こえてきます。
 寄り道を見つけたら、そこで立ち止まれればいいのですが、締め切りという時間制限付きのゴールがありますので、気になっても無視するしかありません。それで無視するうちに、いつもと同じ道をずっと歩いていて、何も感じなくなってしまう。
 自分の頭の中の声は、どんな声だったでしょうか。例えば、自分が文章を読むときの声はどうだったでしょうか。目だけで読むばっかりで、心で音を出してみることをしてみてください。速度ばかりが重視されると、心で読むことも忘れてしまわれる。心の音はゆっくりです。

 


伸縮性のない声


 心の音は、人によってさまざまかと思います。一人の声の人もいれば、状況によって、男性っぽい声、女性っぽい声に変わる人もいる。ちなみに僕の声は、一人の声です。今自分の肉声と比べると、かなり品がある感じ笑。今は、落ち着いた声で話しをしています。
 今僕の声は落ち着いていますが、やはりその時によって、焦りとか、落ち着きとかが変わってきます。声の大きさも違ってくるかもしれない。例えば、金曜日の夜とか、土日何しようかと考えている時なんかは、かなりうるさかったことがありました。あれもしてーこれもしてーとずっと言っている。それに、もしこれできちゃったらどうしよう、すごくね、みたいな、調子に乗り始めることもあります。反対に月曜日は、だるいです。朝起きる時なんか特に、起きるかーって、ため息ついて、息を長く伸ばしながら言っている感じです。
 こんなふうに、曜日によって声のトーンが変わってくる。それならば、水曜日に現れる声はどんな感じなのでしょうか。金曜日にみたいに、うるさいでしょうか。それとも、月曜日みたいに、ダルイ感じでしょうか。
 少なくとも、速度が早かったり、遅かったりする声ではないような気がします。伸びたり、縮んでぴょんぴょん出てくるような声ではない。水曜日の声に、伸縮性はない。

 


頭の奥の洞窟


 水曜日の声は、何か詰まってから吐き出すように出たり、最初が急で後が長くなるような出かたではありません。しかし、ゆっくりです。はやいところがありません。
 はやいところがないとはどういうことでしょうか。それは、吐き出す感じや、急な感じがないということです。無理をしている感がないのです。月曜日の声は、「起きるか〜」と言いながら、平日に対する頑張りを入れます。金曜日の声は、「あれもしたこれもしたい」と言いながら、土日に過剰に反応します。どちらも、息が荒い。
 対して水曜日は、息が荒いことはありません。息は穏やかです。ぽっと独り言のような感じです。それは、誰にも聞こえません。音が小さいからではありません。頭の中で聞こえるからです。
 ただ、聞き取りづらい音です。頭の奥で聞こえるからです。それは、心のところから発せられるからです。頭の中に、洞窟をイメージするとよいと思います。真っ暗な、水が浸っている洞窟。じっとみていると、奥から微かに、水が滴る音が聞こえる。洞窟の奥が心です。その音に耳を澄ませるように、頭に意識を向けます。

 


洞窟の隙間風


 心の声は、静かなところでしか聞こえません。洞窟にいたって、そこでしゃべっていては、そればかりが反響してしまい、大事な音がかき消されてしまいます。シーンと、肌と洞窟の壁が密着するように、静かにしなくてはいけません。
 ですが、別に意識的にそういう状態に持っていかなくても大丈夫です。仕事中に、浮かんでくる中身のない言葉は、ふいにやってきます。その「ふい」の前には、静かな一瞬の沈黙があるのだということです。
 その静けさから鳴る音は、勢いのあるものではありません。ダラッとしているのでもありません。優しく、触るようにやってきます。ですが、語りかけてくるようでもありません。その音は無視することができる。
 その洞窟の音はいわば、風のようなものです。音ですが、風です。そもそも音は、空気の振動で伝わります。だから、そこには風があって当たり前です。洞窟の奥からは、隙間風が吹く。その言葉の肌触りに、気づくことが必要です。

 


洞窟の中で山びこ


 頭の中で、隙間風の言葉が吹いたなら、次はそれに応答します。その言葉には意味がないからです。しかし、意味がないから、意味を埋めるのではありません。意味を探すのではありません。
 意味ではなく、自分が興味のあるものを探しているのです。例えば、先にも例に出したように、営業先の名前が浮かぶ。それでこの意味を問うても、その会社の建物とか、そういったことしか出てきません。そうではなくて、この会社が魚を販売していて、自分は魚を食べたいのだと、自分が見つける必要がある。
 そのためには、聞こえた言葉を、仕事の文脈でみるのではありません。自分の文脈でみようとする。洞窟から聞こえた音を元に、踵を返して会社に行ってしまうのではなく、まだしばらく、音が聞こえた方に居続ける。洞窟の方を、隙間風が吹いた辺りをじっとみる。
 具体的には、その言葉が聞こえたら、その言葉自体を復唱すればいいのです。なんでこの言葉が出てきたのか、意味を考えようとせず、その文字を繰り返して頭の中で発音してみる。洞窟の中で、山びこを起こします。

 


糸電話を使う


 自分の声を真似して、声を唱えてみる。するとしばらくして、ちゃんと返ってきます。さっきと同じ言葉ではありません。それは、別の言葉です。そしたら、その言葉も復唱します。同じように待つと、また返ってくる。そうやって、だんだん、自分が興味のあることがわかってくる。
 不思議かもしれませんが、言葉にはそういう働きもあるということです。言葉は、会社という現実を表す働きもありますが、自分の想像を表していく働きもあるのです。
 簡単にいってしまうと、連想するということです。ですが、連想するとはいっても、通常の連想ゲームような形ではありません。バナナと言ったら黄色、黄色と言ったらラッパ、ラッパと言ったら...みたいに、脈絡がない場合ではありません。
 声が聞こえたら、その声の元に聞き返します。自分にまつわることが、少しずつ、ちゃんと返ってきます。そういう連想をするためには、自由にイメージしすぎてもいけません。一個一個、その言葉で自分が何を浮かべたいのか、確かめていく作業が必要です。やりとりされる声は、行ったり、来たりする。それは、コップで作った糸電話を使うみたいにです。

 


暗闇は暖かい


 声とのやりとりは、一つ一つ丁寧に行います。まず、ちゃんと聞くこと。それを聞き取ったら、次に、ちゃんと同じ言葉を復唱して、聞こえた合図を送ること。そしたらまた、次の言葉を待って、聞く体勢を作ります。そしてまた、次の声を拾う。
 この静かな交信は、すごく弱いつながりです。こうしているときに外の音が気にかかれば、すぐ途切れてしまう。糸電話の糸は、凧糸ではなく、蜘蛛の糸のように細くて脆い。そんなギリギリのラインで、自分の心と頭はつながっています。
 途切れてしまうのは、外の音以外にもあります。それは、頭が切ってしまう場合です。自分から切ってしまうこともある。心自体は普段真っ暗ですから、そこから得体の知れない声が聞こえてくる。怖いです。自分の中から聞こえるのに、自分ではないみたい。
 そうやって、せっかくの声を、意味がない言葉として忘れようとしてしまいます。しかし、その声は紛れもない自分のものですし、平日や土日に関係のない興味を拾うチャンスです。声が聞こえたら、少しぼーっとしてみればいいのです。待ってみる。そうしたら、暗闇が意外と暖かいことに気づきます。

 


応えるノック


 自分の心の中は、意外と心地がいいのです。それは、自分だけの場所です。自分だけの部屋です。誰も入ってこないのです。これまでは、誰かと一緒にいないと怖かった。その意味で、ずっとリビングにいたんです。
 誰かとは、別に人でなくてもいい。テレビとかでもいいのです。つまり、社会の中にいる状態が、リビングにいる状態でした。リビングの方が仕事は捗るかも知れない。夢中になっていたかも知れない。でも、その椅子の後ろには、ずっと自分の部屋のドアがあったのです。
 そのドアからは物音ひとつしませんでした。だから、入っていいのかわからない。でも扉には、自分の名前が吊るしてある。この部屋は、きっと自分の部屋だと。でももしかしたら他の誰かが使っているかも知れない。だから、一応ノックをします。
 返事はありません。ですが、気配はある。でも人がいるようではありません。ドアを開けてしまったら無くなっちゃうような、空気のようなものがある。そうやって、開けようかどうか迷っていると、ちゃんとノックの音が返ってきます。心に声をかければ、声はちゃんと応えてくれる。

 


立体的な声


 ノックをして、ノックが返ってきたのだから、もう入っていいということでしょう。自分は、ドアノブをひねり、中に入ろうとします。ドアの隙間が開く。そのみえた間から一瞬、この部屋には何もないということがわかりました。
 ですが次の瞬間、風のようなものがブォーっと吹いてくる。でも、風圧はありません。自分は飛ばされることはない。流れはすごいのに、自分をすり抜けていきます。音だけが聞こえてくる。
 風の瞬く音の中。自分は、次の声を聞き取ります。それで、いよいよドアが全開される。そこは、何もない部屋。でも、暗くありません。この部屋に入る前は、ドアが閉まっていたので、てっきり電気も切れているのかと思っていました。ですが、そんなことはなかった。真っ白な部屋でした。
 この部屋では、必要な音しか聞こえてきません。雑音がない。外を通る車の音、リビングで作る料理の音も聞こえてきません。シーンとしている。そして、自分の声が、よく通るのです。よく響く。自分がそこで声を出すたびに、その声が壁から反響して、自分に返ってくる。自分の身体が振動して、自分の位置を確認できる。心の声は、立体的です。

 


出てくるドア


 一度、心の部屋で自分の音を感じ取られれば、もう身体はその振動を覚えます。一度、リビングという社会の部屋、すなわち仕事に戻っても、あのじわじわした感じを忘れることはありません。
 仕事をしているとき、心のドアがノックされる時がこれからもやってきます。パソコンの音や隣の人の音に紛れているので、まずちゃんと聞き分けることです。自分の頭の独り言に気づくこと。
 気づくことができたら、今度はその独り言を取りこぼさないことです。なんだあれって言って、無視をしないことです。その声が本当何を言いたのか、辿ってみなくてはいけない。あたりをみまわします。そこには、どこかに、自分のドアがあるはずです。
 心の声とは、ドアがないノックです。壁を叩く音ではありません。壁の中に何か空間があるような、それを感じさせるような音の振動です。その振動が、その一体にドアを浮き出します。このドアが、頭の中の言葉となって現れてくる。ドアは、そこにあるのではなく、そこから出てくるものです。

 

*第四章は、今週に掲載予定です。