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毎日、土日の作り方 第二章:1週間に満ちた声

             

 

1週間というコース


 先ほど、仕事を気にするのではなく、仕事をしている自分を気にするということを言いました。走る速度を上げることではなく、走る速度を保つということです。つまり、ペースを作るということです。
 ペースとは、一定の間隔で走るということです。仕事は、毎週やってきます。平日5日間です。同時に、土日も毎週やってきます。毎回、同じ周期でやってくる。1週間という単位の中で、繰り返されます。
 つまり、走るコースというのは決まっているのです。平日の仕事をする時間の後に、土日にする自分事の時間がある。その後に、平日がまた始まる。コースのゴールは、コースのスタートなのです。
 仕事のゴールは遠くの方で見えないのではありません。ゴールは仕事のゴールでもありません。仕事と自分の時間を含んだ、1週間のゴールです。走っていたコースは、仕事のコースでも、自分のコースでもない、1週間のコースでした。

 


小走りのコース


 1週間で仕事と自分事が回ってくる。それがわかっている。つまり、平日になると、自分事のことが次に回ってくると知っている。土日になると、仕事が次に回ってくると知っている。先のことはわかっているのです。
 だから、平日には土日に何をするか考えるし、土日には、平日のことを考えます。僕は、土日に仕事のことを考えてしまうということを問題にしていましたが、それはある部分では当たり前でした。
 しかし同時に、僕が問題にしていたのは、土日も結局、楽しめないということでした。楽しめないのは、土日=平日だったからです。でも、土日が毎週やってきて、同じように平日も毎週やってくると考えていいなら、土日は平日と完全にイコールではなくなってきます。
 土日の次には平日があるので、土日にも、平日のことを考えることがある。それだけだったのです。つまり、土日に色々する中で、平日のことを考えるタイミングがあるということです。土日にすること全部が、平日のすること全部と同じではなかった。僕は、自分が走るコースを、仕事でしか考えて来れていなかった。コースには、自分のコースもあり、ただその先に仕事のコースがまた始まるので、小走り程度で、走っていけばいい。

 


小走り用のランニングマシーン


 小走り程度で走っていいのなら、仕事のことも別に疎かにするわけではないし、自分のこともできます。両方、両立できるのです。そして、平日と土日はきっちり分かれているわけではなく、それぞれ、考える機会が混じり合っていると考えるべきでした。
 土日には、平日を考えることもある。しかし、それ以外にしていることもある。それが、土日にすることです。本を読んだり、映画を見たり、小旅行に行ったりします。もちろんその間、平日を考えることだってある。でもそうだからと言って、本を読んだことが、平日を考えることと同じになるわけではありません。
 自分は仕事だけをしているのではないのだから、仕事に引きつけて考える必要はない。たまたま読んだ本が、仕事を思い出すきっかけになっただけです。別に、読んだからどうなのかって考えなくてもいい。頭に浮かんだのなら考えたらいいし、面白かった、泣いた、嬉しかった、そんな感情だけで十分です。
 土日の小走りコースは、仕事が気になる人だけ走っているのかもしれません。土日に全く仕事を考えない場合もあるかもしれないと考えると、その場合は、小走りすることもありません。でも、平日はその人にもやってきます。であれば、土日は本当に休憩スペースで、小走りしたい人は、ランニングマシーンでちょっと運動している。でも、小走りしている人と、小走りしていない人は、同じスペースにいるのです。

 


土日というショッピングモール


 小走りするとは、仕事のことを考えるということです。小走りしないとは、自分のことをするということです。後者の方が、すごく拡がりがあります。例えば、飲み会の席で、自分のことを話すよりも、仕事のことを話す方が誰もが理解できます。
 自分のことは、何かなければ他の人と共有しませんから、ずっとプライベートなままの場合があります。それに、土日の48時間、誰からも言われない時間になるわけですから、することを考えるのは自分だけです。そうすると、なおさら、多様になってくる。
 人それぞれ以上に、一人一人の中にも、その時その時に、色々することがあって、しかも毎週ごとに変わっている。先週は、映画なんか見なかったのに、今週は映画を見ることになっている、ということだって普通にあります。平日ならそんなことはないのです。
 でも、週ごとに全てが変わっているわけではありません。毎週ショッピングに行くということは変わらないで、今週だけ、映画を見に行くような感じです。土日のスペースには、ランニングマシーンもあれば、映画館もあるし、そのほか、いろんな施設がある。人は、それぞれ行きつけのところがあると同時に、たまにはここにも行ってみよっかなぐらいに、立ち寄るところもある。土日というスペースは、ショッピングモールのようです。

 


スマホは休憩


 ショッピングモールような土日には、本当に色んなことができます。食べることはもちろん、雑貨を揃えたり、服を着たり、おもちゃで遊んだり、公園なんかもあったりします。ここでいうショッピングモールには、お金は必要なく、誰もが体験できるというイメージです。
 ただ、誰もがそのモールにいるからとって、その場所を使いこなせているわけではありません。最初のうちは、いったい何をしたらいいのかわからないという人もいます。お店がたくさんあるのですから、迷って当然です。そういう時は、他の人と一緒についていくということをやったりします。みんなが映画に行くなら、映画に行こうとなる。そしたら隣に、アイスクリーム屋さんがあるから、アイスを食べようとなる。このショッピングモールの感じが、土日の過ごし方と似ているのです。
 土日にすることは、だいたい、近くにあるお店同士の関係で決まっていくのだと思います。映画を見ることの隣には、食べることがある、食べることの隣には、服を着ることがある。こんなふうに、土日にすることは決まってくる。
 こういうのは、自分がやりたくないことは選びません。ショッピングモールに来て、わざわざ行きたくないお店にはいきません。一緒に行った友人がそこに行きたいなら、自分の方は、お店の前の休憩イスで座って、スマホを見ているのでいいのです。スマホを触ることが、休憩です。

 


みんなのショッピングモール


 土日にスマホを触って休憩していることは、何もしていないことを避けるためです。自分が次に何すればいいかわからない時、なんとなく、スマホを触るのです。そして、ゲームなんかしたりして、ちょっと調べごとをしてみる。あるいは、ツイッターなんかをみて、あ、これやりたい、この動画みたい、なんてことを見つける。
 そんなふうに、土日はいつも、常に、やりたいことに向かえるよう工夫されていっている。人に言われて、仕方なくする場合は、その時だけ平日です。ショッピングモールにいたら、急に電話がかかっていて、会社に行かなくちゃいけない。場所自体が移動するのです。会社が平日の場所、ショッピングモールが土日の場所です。
 だから、土日は基本的に、ずっとそこにいることができます。トイレもありますし、温泉もあります。何なら寝室もある。そこには、土日という生活があるのです。ここでは、物理的な距離の話はしていません。実際には、ショッピングモールの施設の隣に、温泉があったります。
 でも、そういうことではなく、僕が言いたいのは、土日にすること全てが、その、ショッピングモールの何でも揃っている感を持っているということです。つまり、土日を過ごすことに、苦労がないのです。ただ、誰に教えられるわけでもなく、みんな、自分がしたいことをできている。

 


自分の家


 ただどうでしょうか。営業時間が経っていくにつれて、みんなの顔も疲れてきます。最初の方は、子どもみたいにあっちこっち飛び回って、あれもこれもとやっていったのが、だんだん動きがゆっくりになり、飛び回ることはなくなってくる。
 そうして最後は、行きたいけど、ボーッとする。そのまま、店の前で立ち尽くすみたいな状態になってくる。つまり身体が動かなくなってくるのです。まだ、この店だけじゃなくて、隣の店にも行きたいのに、ボーッとその辺りをうろうろしている。
 頭はいきたいと思っているが、身体はもう疲れてしまう。身体はもう寝たいのです。それも、ショッピングモールにある寝室ではありません。自分の家です。自分の家で寝たいのです。モールの寝室は、土日に寝ることを頭で考えている人のものです。でもここで寝たいといっているのは、頭ではなく身体です。
 身体はお家のベットで寝たい。そしたらまた元気に、次の場所に行くことができます。次の日が日曜日なら、またショッピングモールへ。次の日が月曜日なら、会社に行くことができる。自分たちには、家があることを忘れては行けません。

 


非常口の緑色ランプ


 家にうまく帰れない、つまり、身体が寝れない状況をまたいでしまうと、元気が戻りません。疲れたまま、会社に行くことになる。早朝までショッピングモールで遊んで、そのまま、会社に行くようなものです。しんどいです。
 実際のショッピングモールは夜には閉まりますので、みんな自宅に帰りますが、頭のショッピングモールは、全然24時間営業なのです。ずっと明かりがついている。いつでも、お店は開いているのです。
 しかし、身体の家は、疲れた時にしか開きません。それも、開いた音がわかりにくい。知らない間に、ゆっくり開くのです。疲れは気づきにくい。ショッピングモールは、めちゃくちゃ賑やかなのです。金曜日の夜から、それはもう始まっています。
 賑やかな音は頭を興奮させ続けます。でもその間に、密かな音がなるのです。ショッピングモールには、お店とお店の間に、スタッフだけの入り口に続く廊下があります。ちょっと奥が暗い、非常口の緑ライトがついているようなところ。この非常ランプが、点灯する音に、気づかなくてはいけません。遊んでいる最中に、ふと、視界の端に映る緑色に気づかなくてはいけないのです。

 


土日と平日の営業時間


 土日の身体の疲れは、何かしている時にはすごく気づきにくい。頭は、外ばかりを意識していて、身体の方を意識することがないからです。身体はそうやって、蔑ろにされているかもしれません。
 それは、土日だけではありません。平日も、頭ばかりを使いますから、身体も疲れてしまいます。身体はいつでも疲れます。それで、身体は寝ようとします。あとは、頭が身体の要求に気づくかどうかだけ。
 ただ、平日と土日では、その要求のされ方が違ってくると思います。土日は、自分が思いついたことをやるので、基本的には楽しい。楽しいのをやめたくないです。平日は、人から言われたことをやるので、別に楽しいってことはない。いつでも仕事が早く終わるなら、それがいいです。
 平日には、ちゃんと終わりがあります。退勤時間です。だからそこまでとりあえずは頑張る。土日には、ちゃんとした終わりはありません。人それぞれです。土日のショッピングモールは24時間営業ですが、平日の会社は、だいたい夜17時までの営業です。

 


平日の夜は静か


 営業時間が異なるなら、頭が切り替わるスイッチも変わってきます。平日だと、17時に終わるとわかっていますから、そこまでは頑張って、あとの予定は大体決まってきます。家に帰る、ご飯を食べる、ちょっとテレビ見る、シャワー浴びて、寝る。だいたいこんな感じです。
 割とスムーズな流れです。それは、また明日も仕事があるからであり、そうやって習慣づいているということもありますが、寝ないとしんどいからです。寝ぼけて平日の朝を迎えるなんてことはよくないとわかっている。だから、頭も身体も、ちゃんと寝る方向へ向かいます。
 つまり、平日は割と誰でも寝ることができる。身体はその日頑張れば休みたいし、頭も明日のことがあるから寝ることに意識的です。なので、平日に感じる疲れというのは、寝たいという気持ちです。平日は、眠ることに対して素直です。
 なので、15時ぐらいになると、あともう一息という雰囲気が漂いますし、17時になると、なるべくみんな、帰ろうとします。もちろん、残業もあるでしょう。ただし、それが当たり前になっていない職場であれば、残業はできるだけしたくないはずです。身体も頭も寝たいからです。なので、みんなお家に帰ります。平日の夜は静かです。

 


土日の夜は賑やか


 平日は誰もが寝たい。身体に素直です。では、土日はどうでしょうか。先ほど話したように、土日は自分が出発点でいろんなことができます。頭は興奮している。身体が知らない間に信号を出していても、それに気づくことは難しいと言いました。
 ただ、それがどんな疲れであるか、今一度はっきりさせておくことには意味がありそうです。平日の疲れは、寝たいということです。土日の疲れは、何と言えばよいでしょうか。
 まず、身体の反応としては平日と同じです。どちらも、休みたい。ならば、それに対する頭の働き方の違いが重要です。平日は、毎日働いていて、帰る時間も決まってますから、早く家に帰りたい。対して土日は、二日間だけの自由な時間で、寝る時間は決まってませんから、できるだけ寝たくない。
 土日の疲れとは、この寝たくないという言葉に現れています。寝たいからこそ、寝たくない。だから、夜でも大きな音を出して、自分の頭や他の人の頭の興奮状態を保とうとします。平日の夜に比べて、土日の夜は本当に賑やかです。それはみんな、寝たくないからです。

 


月曜の土日酔い


 寝たくないのは土日、寝たいのは平日です。こんなふうに対比すると、もっと土日は寝れなくなる感じがしてきます。ではここで、土日と平日という区分から一旦離れて、疲れる気持ちを色々みていくことにします。
 寝たくない土日でも、日曜日には、その興奮をできるだけクールダウンさせて、寝ようとします。日曜日の疲れは、寝ようです。そうでないと、月曜日はしんどいからです。
 ただでさえ、月曜日はしんどい。これから続く仕事の始まりだからです。あと、5日間もあります。みんな、朝の出勤時間はどんよりしています。まだ寝たかった、そんな気持ちです。月曜日の疲れは、寝たかった、です。
 それで、まあなんとか、月曜の仕事は終わって、残りの平日に向かって寝ます。この時は、平日の疲れと言いますか、もう寝ようという気持ちです。もう前の土日の楽しみに酔っててはいけないと、気持ちを切り替えます。二日酔いならぬ、土日酔いから、醒めなくてはいけない。

 


金曜の土日出航


 土日の楽しかった思い出も、火曜日に入ると一旦忘れ去られます。ただし、一旦だけです。金曜日にはまだ思い出してきます。土日の楽しかった日々が、またやってきます。金曜日の夜は眠りません。土日酔いの始まりです。
 金曜の疲れはどうなっているでしょうか。これまで5日間仕事をしていましたから、そりゃもうちゃんと寝てたとしても、身体は疲れています。金曜日は、身体としては爆睡したい。でも、頭は新しい時間の始まりを予感しているのです。何たって寝たくない。
 そんな金曜日に疲れるという表現は、あんまりないような気がします。寝たいでも、寝たくないでも、寝たかったでも、寝ようでもない。強いて言えば、寝ないでいい、という感じでしょうか。
 月曜から平日に向かっては、寝ようだったのが、金曜日に来て、寝ないでいいとなる。身体の方は、びっくりです。これまで寝てたのに、急に寝ない方向に舵を切る。金曜日から、大きな土日という海に出航するのです。

 


木曜日は身支度


 土日という海は波が荒い。次にやることがあれこれ、四方八方からやってきます。身体は揺れに揺れる。でも頭はブレてないと思っている。どの方向にきた波にも、直向きに進むわけです。そういうわけで、土日酔いになる。身体は疲れているのに、頭はまだ、やれる風景を思い浮かべたままなのです。
 頭には、諦めが悪いところがある。それが月曜日でした。ただ、反対に、諦めがいいところもあるのです。それが、木曜日です。木曜日になると、明日は金曜日ということがわかります。金曜日は、寝なくていい日ですから、仕事が終わることにワクワクします。
 対して木曜日は、まだ明日仕事が残っている。そう考えると、あと少しで仕事を終わらせようという気持ちになります。仕事を月曜から続いてきたように、そこまで頑張る必要がないと、自分に言い聞かせるのです。そうやって、平日の気持ちのブレーキを、だんだんかけていきます。
 金曜日が、寝なくていい日なら、木曜日は、仕事をそこまでしなくていい日です。人によっては、金曜日に間に合うよう、仕事を終わらせなくてはいけない、そんな場合もあるかもしれませんが。どちらにしろ、木曜日には、仕事に対するある種の切り上げが生まれてきます。金曜日の出航に向けて、木曜日には、気持ちに身支度をしておくのです。

 


火曜日は職業従事


 木曜日は休日までもうあと踏ん張りという感じですが、反対に、これから仕事で踏ん張っていこうというのが、火曜日です。火曜日は、寝たかった月曜日の次の日です。月曜日は土日酔いが残っていたけれど、そろそろ、仕事をしなくてはいけないなと。ここでは、土日から平日への切り上げがあります。
 この火曜日は、平日においてある意味一番元気な時です。仕事には前向きです。金曜日に向けて、毎日仕事をやろうという気持ちになっています。木曜日が、仕事をしなくていいのに対し、火曜日は、仕事をしてもいいという感じになってくるのです。
 火曜日は、仕事へ頭のスイッチがちゃんと入ります。土日酔いの重い身体も引き摺らなくていいので、身体もよく動く。仕事も進みます。さらに、金曜日までに仕事を終わらすという雰囲気は、この時点ではまだ薄いため、仕事に向かうペースも、自分の方に持っていけます。
 仕事に対して余裕のあるのが火曜日です。むしろ、土日のことはあまり考えない。火曜日にまだ土日酔いを引きずっているようでしたら、かなり大変ですから。なので、この時点で平日にちゃんと向かい合う気持ちになっている。この時は、航海のことなんて忘れて、各々が町の職業に従事しています。

 


水曜日はどこか遠くを


 そんな仕事への切り替えのある火曜日の次は、水曜日です。ここでは、仕事の気持ちはどうなるでしょうか。仕事に対する向き合い方は、火曜日よりは下がっています。金曜日に近づくからです。仕事のやり切りを意識せざるを得ず、仕事を進めていくという意識も出てきます。
 ただ、それで、木曜日のように仕事を終わらそうということになるかというと、そこまでもありません。木曜日の一歩前が水曜日ですから、終わらせといたほうがいい仕事の数だけ、なんとなく頭に浮かべるような感じです。
 水曜日は、仕事を進めようと思うと同時に、終わらしたほうがいい仕事の様子を軽く見ておきます。仕事を、やるぞというと言い過ぎで、仕事をやらないというのでも言い過ぎている。少し中途半端な感じなのです。別に仕事に対して真剣ではないということではなく、これは、水曜日が平日の中間に位置するかだと思います。
 この中間としての水曜日は、仕事に対して仕方なく向き合いきれない状態でもあります。仕事のことは考えます。仕事を進めるし、仕事の数も知っておく。でも、この時ほど、ぼーっとすることもありません。気合いがうまく入らないからです。この町では職業に従事するも、ふと、手元ではなくどこか遠くをみてしまう。

 


遠くの視線が揺れる


 水曜日にボーッとする、あれは何でしょうか。例えば、パソコンで仕事をしているとします。画面に向かって、キーボードを走らせています。そうやって、カタカタカタ、打っていると、ふと、頭の中では仕事のことじゃない別のことを考えている余白みたいなのが生まれます。
 意識的に余白を作り出したのではありません。仕事をしていて、あ、今仕事のことを考えてなかったなと、後で、自分に隙間をみつけます。なので、仕事の手はずっと動いている。しかし、頭は一瞬だけ、その動きを緩めたのです。
 ふとやってくるその間には、頭の動きが弱まり、何も考えていません。仕事のことで言葉は浮かんでいるかもしれませんが、その言葉にはあまり意味がなくなってくる。例えば、こういう時、「次は〇〇しよう」と思っても、別に、自分の行動には反映されない。それで、また同じ言葉を頭で反芻する。
 この時に、さっきは何も考えていなかったなと気づくのです。水曜日にボーッとする時間は、言葉だけの時間になります。中身のない言葉が、プカーっと浮きます。この町の職業従事者は、遠くを見るその視線が揺れる。

 


奥に聞こえた音


 ふいに出てきた、中身だけが抜かれた言葉は、別に忘れてしまうわけではありません。思い出します。あれ、何考えていったけと。言葉は発していました。でも、その意味が伴っていなかったのです。
 ですので、仕事を進める手は緩みません。身体は動いています。頭も通常通り働いている。なのに、その間が少し噛み合わなくなる。それで、仕事の手を少し止めて、頭で何を言っていたのかを思い出そうとします。身体も頭も、止まるのです。
 その隙間は、身体にも頭のどちらかで生じたのではありません。身体と頭の間です。身体と頭が、それまでうまく対応していたのが、少し、ズレることで生じます。手が勝手に動くといったような、身体の方だけズレていくのではありません。手は動かず、頭だけでぐるぐる考えると言ったような、頭だけがズレていくのでもありません。
 手も頭も動いている中で、音だけが聞こえるのです。頭の中に、急に口が出てきたような感じです。口が勝手にしゃべったのです。それまで言葉は、頭に直接あるような感じだったのが、頭の奥から、音だけが響く瞬間がある。この町の人々の遠くが揺れたのは、奥から音が聞こえたからでした。

 


音は大きくできる


 その頭の口から発せられた音は、文字だけです。そこに具体的なイメージは伴っていません。犬と言ったのなら、ダックスフンドや柴犬が出てくるのではありません。「犬」という文字だけが、発せられます。
 その文字は、仕事に関係のある言葉だったりしますが、意味が入っていないので、何か集中しきれないような感じが出てきます。仕事の言葉であるようで、仕事の言葉でない。いつも使っている言葉が、何か偽物になったような感じです。
 ほんの一瞬の出来事ですから、そこまで気にすることにはなりません。頭の裏にくっついては、すぐ剥がれるような、薄い感覚です。しかし、そこには、仕事をしているようで仕事をしていない、平日であるようで平日でない感じがあるのです。
 僕はここに、土日へ向かう姿勢を作るヒントが隠れていると思います。平日は、土日ではない。土日は平日ではない。だから、土日と平日は切り替えなくてはいけないと言われます。ですが、僕は、毎週土日があって平日があるなら、土日に向かう姿勢を、平日の間に少しずつ作れるのではないかと思っているのです。視線の奥に聞こえた音は、少しずつ、大きくすることができるのではないか。

 


音の元は自分の声


 それじゃあどうするかを考えたいところですが、もう少し、何が起きているのかを見ていきます。実際のところをずっと知っていければ、そこでどうするかということは自然とつながっていきます。
 水曜日は、土日ではない、平日です。しかし、そこで度々発せられるのは、平日であるようでない言葉です。そこでは一体、何を考えているのか。少なくとも、土日にすることではありません。それは、仕事に関係がない。水曜日には、まだ土日のことを考えにくい。まだ二日間もあるのに、理想的なことを考え過ぎてもつらいです。
 かといって、仕事に関係あるわけでもない。その言葉は、営業先の人の名前や、電話番号かもしれません。でも、ただ独り言を発するような感じです。自分に対して、頭が独り言を言うのです。人の独り言を、他の人は気にしません。それと同じように、頭の口が発した独り言を、自分は一瞬、気にしない。
 つまり、ここで自分は俄に2つに分かれている。脳内の音と、その音を知覚する自分です。意識は一つですが、その両端の片方では、音が鳴る、もう片方で、その音を聞くような感じです。視線の奥に聞こえた声は、遠くから聞こえたはずでした。しかし、それは実際、自分の声だった。

 

*第三章は、来週までに掲載予定です。