1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

毎日、土日の作り方 はじめに〜土日という職員室で趣味を探す〜

            

趣味というコンテスト

 突然ですが、質問させてください。「趣味は何ですか?」。初対面の時に、こうやって質問されること、よくあると思います。僕はこういう時、少し戸惑ってしまいます。何を言おうか迷うからです。そんなに趣味がたくさんあるわけではありません。だから、選ぶことに迷っているのではないのです。自分がたとえば本を読んでいることを、趣味として読書と言っていいのか、そこに迷いがあるのです。
 自分が実際にしていることを、趣味にしていいのか。そのことにいつも戸惑います。趣味というと、本格的なもの、というニュアンスがあるからです。別に僕は、そんな誰かの全集なんか読んだりしてないし、誰かにハマっているとか、そんなもんでもないし、読んだ本の説明すらできないので、ちゃんと読んでいることすらわからないのです。でも、一応、それは趣味として言うことができます。ちょっと本を読んでいるだけで、趣味を読書ということはできます。
 自分が少しでもしていることなら、趣味と言ってもよいのです。しかし、それを人に伝えた時、妙に、本格的にやっているものと思われてしまう。自分が実際にしていることは、いつも、その人の期待以下なのに。このギャップが、僕を戸惑わせます。まるで、何気なく受けたモデルコンテストで、いきなり最終ステージにまでのぼることになった感覚です(そんな経験はありません笑)。
 その趣味というステージに立つと、試されてしまうのです。読書というスポットライトが僕だけに当たり、光の加減で顔の見えない観客席が、ただただ、その真っ暗さで僕をじっとみている。僕は、その舞台で、これからいかに僕が読書をしてきたのか、雄弁に語らなくてはいけません。心の中では、「そんな大して趣味じゃないのに、トホホ」と思いながら。でもそれは、読書を趣味と言ってしまったばかりに始まったことなのです。

 

ガラスショーケースで過ごす

 趣味という言葉は、かなり特殊なようです。この、いきなり顔の見えない観客席の前に立たされる感を、どう扱えばいいのか。なんせ、「趣味は何ですか」と聞いてこられたのは、少なからず、自分のことを聞いてくれてるということです。だったら、僕も自分のことを答えたい。でも、趣味として言ってしまうと、自分のハードルを超えていく言葉として、伝わってしまう。
 ハードルを下げて伝えたいのですが、趣味という言葉も結構便利なものです。趣味は読書といえば、もう大体その人には伝わる。読書をしている姿が、浮かんでくるのです。ですが、そのイメージでは、その姿だけがくり抜かれています。つまり、僕が実際に本を読んでいるときに、洗濯機をまわしにいったり、スマホをいじったり、その本を読むのに飽きて別の本をペラペラめくってあくびをしている様子などなど、趣味というイメージからは、浮かんでこないのです。
 趣味で伝わる自分は、1人なのです。読書をしているといえば、ずっと読書しかしていない。純粋に、ただひたむきに、読書をしている人なのです。だから、一度、趣味を読書と言ってしまうと、その日以降、なんだか本を毎日読まなくてはいけない気がしてきます。しかも、同じ本をです。それで、またその人に会った時に、その本の説明ができるようにならないとと思ってしまう。
 読書というモデルコンテストに応募してしまったら、一冊の本だけを持って、ガラスショーケースの中で過ごさなくてはいけない。誰がのぞいているかわからない中で、ただ、終わりのノックがされるまで、じっと椅子に座って読んでなくてはいけない。こうなってしまうと、趣味ってとってもしんどい。でも、趣味を言って、応募してしまったのは自分です。

 

申し込んだのは親心

 趣味という言葉に、僕が頼ってしまっているところはあります。初対面の人と会話に困れば、やっぱり聞いちゃうのは趣味のことです。それは相手のことを知りたかったからですし、相手のことを気にしていますよという、合図でもあるからです。相手と会話を続けたいから、ついつい、趣味の質問をするし、質問をされたら答え返します。
 そうすれば、また会話は続きます。趣味は、すごく答えやすいからです。趣味がないという人でも、自分が普段しているほんのわずかな部分を、趣味に仕立て上げることができるからです。たとえば、昨日スマホでユーチューブを見ていたのなら、趣味はユーチューブですと答えることができる。それくらい、些細なことで言えるだから、趣味のやり取りは楽なのです。
 でも、趣味を言うことだけが楽なのであって、そこから、その趣味を語ることになると、とってもしんどい。そんな本格的にできないからです。だから、それでも相手に対して趣味を言ってしまう時、自分から望んで、趣味にしていけますよと、態度を示すことになる。趣味のコンテストに申し込んだのは、できない自分ではなく、できると思っている親心の方だったのです。親心が、自分の子どもはできると思って、試しに申し込んだのです。
 親心は、自分の中にあります。つまり、「趣味は何ですか?」と質問された時、その相手の期待に応えられそうだと思った自分に、親心があるのです。子どもは、親の期待に応えようとします。親が期待すれば、子どもは頑張ります。それと同じように、質問に応える一瞬の期待が、口から趣味を言わせてしまうのです。

 

本番の前には面接がある

 ほんとうに、自分の中の親心には困らされます。ここでは、実際の親が悪いと言っているのではありません。人には、ついつい期待をしてしまう親のような心があると言っているのです。なので、親心には自分で対処します。
 親心は、相手の期待に応えようとするから出てきます。でも、会話って、基本的には期待に応え合うことです。だから、親心を最初から抑えることは難しい。無理に抑えようとすると、期待に応えないことになりますから、「趣味はありません。」と言ってしまて、会話が終了してしまう。
 ならば、最初は親が出るのを許してあげてはどうでしょうか。「趣味はなんですか?」と聞かれたら、まずはすぐ相手の期待に応えて、「趣味は読書なんです」と言ってしまう。そしてその後すぐに、「あ、でも実は、そんな本を読んでいるわけではなくて、最近ちょっと読んだだけなんですけど。」と、現状を付け加えてしまう。こうすれば、相手の質問に対して、かろうじて応えたことになります。それにその方が、「そうなんですか、その本はどんな本ですか。」と、会話も続きそうです。
 こんなふうに、趣味を言っておきながら、自分の現状を添えておくことで、少し楽になります。趣味コンテストで、親が応募しちゃったとしても、最初の面接で、自分の現状を素直に話しておくのがいいのです。そうした方が、面接官も自分の状況を想像しやすく、もっとちゃんと見てくれます。なので、趣味を言ってしまっても、いきなりベラベラ語る必要はありません。いきなり本番ではない。まずは面接なのです。

 

金曜夜はベットでリハーサル

 本番の質問が、「趣味は何ですか?」なのです。そうすると、面接の質問もあっていいはずです。変に期待をかけるような言い方ではなく、もっと、相手の今を教えてほしいというような言い方です。先ほど、趣味は自分がした些細なことから話せると言いました。では、自分がしている些細なことって、いつにしているでしょうか。大体、お仕事がお休みの日、土日です。趣味は、土日にやります。ならば、面接の質問はこうです。「土日は何をしていますか?」。こう言ったほうが、ハードル低く、相手のことを知れるのではないでしょうか。
 では、土日にすることは、趣味と同じように、そこまで本格的でなくてもいいのでしょうか。ここで、自分の土日を思い出してみます。本を読んだり、散歩したり、映画みたりなどなどです。割と色々やっています。
 やっぱり土日ですから、色々やりたいです。平日にできなかった分、土日はうんと遊びたい。金曜日の仕事終わりは、もうウキウキです。今日は寝ずに夜更かししちゃうか、でも身体に悪いから早く寝ちゃおっか、そういう寝るか寝まいかを考えること自体も、なんか楽しくなってきてしまう。
 でも、寝なくても寝ても、結局、土日にやりたいことが全てできるわけではないのです。詰め込みすぎてしまう。それで、土日も結局、疲れを引きずってしまいます。なぜ、そんなにやろうとしてたのか。土日には、自分が何をしているのかを聞いてくる面接があるのです。土日は、何かしなければいけない。だから、前日の金曜日の夜、ベットの中でリハーサルをします。

 

土日はスーパーマン

 金曜の夜、ベットの中であれこれ考えている。これをする、あれをする。そんなことをずっと考えている。自分がすることをずっと考えている。その自分は、実際の自分ではありません。全部はできないからです。そこでするという自分は、なんでもやり切るスーパーマンです。
 頭の中で思い描くスーパーマンは、必ずその日にすることが全部できてしまいます。だから、土曜日になれば、もうたたみかけるよう、いろんなことをします。次々にこなす、その速度が、気持ちいいのです。思う通りに物事が進むのです。
 でも、また夜になると、できないことがあったことに気づく。それでわかるのです。自分はスーパーマンじゃなかったと。色々なことをしすぎてたな。できるはずなかったのにな。もっと他に大事なことあっただろうに。そんなふうに後悔をします。
 それでも、ベットに着くとまた考えてしまうのです。日曜は何をしようかと。先ほどの後悔の気持ちは、すでにどこかに飛んでいってしまいます。後悔を感じるところまでは、スーパーマンの自分だったからです。それで、スーパーマンではなくなった自分がベットで何を考えるかというと、スーパーマンになってどうしようか、そればかりなのです。

 

家では普通の人

 どうしてスーパーマンになれると思ってしまうのでしょうか。それは、土日に時間があるからです。金曜日の夜に、明日土曜日だって思った時の感覚を思い出してください。もう丸一日、自由な感覚になります。どんなことでもできる。だから、時間も無限のように感じられます。その気分はまるで、雲ひとつない、青空の中で、自分が好き勝手に飛び交っているような気持ちなのです。
 でも実際の土曜日には、自由に動き回れないってことに気づくのです。もうスーパーマンのフリはしんどいのではないでしょうか。まずは、こう思いましょう。自分は、土日をうまく過ごせていないのだと。ここから、ようやくマントを取って、自分の現状という地面の上に立つことができます。
 では、なぜスーパーマンが飛ぶように、色々なことをこなせると思っていたのでしょうか。それは、その速度を体験してきたからです。それはいつか。平日です。仕事をしている時です。みなさんは、自分が思っている以上に、すごくたくさんの仕事をしているのです。一度、その日にやった仕事をメモ取ってみるといいかもしれません。細かいことまで数えるとすごい量になるはずです。
 そんなふうに、平日では誰でもスーパーマンのようにたくさんのことをこなしているのです。だから、平日の過ごし方なら、みなさんもう身体でわかっている。だからこそ、土日でもその身体のまま突入してしまうのです。平日と同じようにできるであろうと。でも、スーパーマンになるためには、会社に行かないといけないのです。家では、普通の人なのです。

 

土日はウルトラマン

 家ではそんな何でもできるわけではないのに、何でもできると前日までは考えている。そんな自分を振り返ったとき、僕はいつも、土日は何もしていないと思いたくなります。普通なのだから。普通に土日を過ごすしかできなかったからです。
 それでも、土日はいつもやってきます。毎週、自分が普通の人からスーパーマンになれるか試してくるのです。チャンスは何回でもある。それは、自分がバリバリ働ける存在である、そんな理想としてやってきます。自分は全力で動けるはずなのだ。だから、土日は毎週来るのだ。そんな思考になっていきます。
 でも結局、できないことが出てくるのだから、与えられたチャンスを物に仕切れなかったのです。土日には毎回、うまく過ごせるかどうかという敵がやってくる。でも、ギリギリのところで敵を倒せない。今度こそはと、戦うのです。でも、いつも、体力切れになってしまい、やられてしまうのです。その意味で、スーパーマンとは、3分しか動けないウルトラマンなのです。
 そんな疲れて眠れない夜が土日になってしまうのです。もう立ちたくない。ずっと科学特捜隊にいたくなります。立場上は所属しておきたいが、でも、実際には変身したくない。つまり、土日はうまく過ごせてないが、それでも、土日をうまく過ごせていることにしておいてほしいのです。だから、「土日は何している?」と聞かれたら、「何もしてないよ」と答えたくなるのです。

 

急かしてくるウルトラマン

 そうすると、「何もしていないよ」と言っている自分もどうなのって思ってきます。でも、そう思ってしまう自分はどうしようもありません。自分は基本的に不器用なのです。でも、そのまま不器用でいるというわけにはいきません。もう一度、考えてみます。なぜ、何もしていないよと答えたくなったのか。
 それは、土日はうまく過ごしたことにしておいてほしいからですが、やっぱり、土日を大事にしたいという気持ちがあるからです。だって自分の時間です。会社の誰かさんのための時間ではありません。忙しくて慌ただしい時間から、のんびりとボーッとできる時間なのです。
 そんな土日を充実させたい気持ちがあることは、忘れたくない。でも、のんびりしようとしていた時間は、何やかんや忙しい時間に変わってしまう。時間には、限りがあることがわかっているからです。もしウルトラマンに3分という制限がないのなら、もうずっと地球は安全です。でも、3分しかないので、地球はずっと安全ではない。だから、守られる必要がある。タイミングです。つまり、最初の方はのんびりしていても、あ、このままだと他のことできなそうって思う。その時にウルトラマンに変身する。
 土日にいくらボーッとしようとしても、必ずどこかで、時間がないぞと言ってくるウルトラマンが出てきてしまうのです。ボーッとしておきたいのに。急に、やばい、変身しなきゃってなる。地球が危ないからです。自分の時間が少ないからです。でも、本当でしょうか。誤警報が鳴って、それに反応しただけかもしれません。地球は思ったより安全だったかもしれません。自分の時間は、そこで無視されてしまったのかも。

 

なんかやらなきゃサイレン

 じゃあ、自分の時間を無視しないよう意識したら、土日はうまく過ごせるのでしょうか。それが、できないという話でした。ウルトラマンは何度でも出てきます。最初は平和な時間だったのに、大変な時間になってしまう。そう思ってしまうのです。
 ここには、平和に過ごしたい気持ちと、大変に過ごしたい気持ちの両方があります。混ざってしまっています。そして、後者の気持ちの方が強いのです。なぜなら、平日の間に既に鍛え上げられている気持ちですから。それに対して土日は数が少ない。体験が少ない。だから、休日の気持ちはすぐ負けてしまう。弱い気持ちなのです。だから、強い平日の気持ちの方がすぐ優勢になります。
 土日をうまく過ごすためには、土日の気持ちで平日の気持ちに立ち向かっても勝てません。ボーッとしててもどうせ忙しくしてしまう。じゃあ逃げればどうか。家だと片付けるものだとかやることを思い付いてしまうので、遠くに出かけるようなパターンです。でも、どうせその先でも、何かしなければいけない気持ちに駆られます。逃げても平日は追っかけてくる。変身しなければいけない危険のサイレンは、どこからでも聞こえてくるのです。
 ならば、もうそのサイレンの音にビビらないでおくようにしするしかありません。頭の中で、「やばい、なんかやらなきゃ」と焦った時に、「あ、またなんかやらなきゃと思ってる」と感じ取っていくしかありません。そうすると、ほんの少しですが、余裕が出てきます。ただサイレンが鳴っているだけだなと、急ごうとしている自分に距離を取ることができてきます。

 

公園で遊ぶ子どもの声

 平日の気持ちには、本当に何度も脅かされます。土日の気持ちは何度儚く散っていくことか。でも、そうやって、自分の中の土日に少しずつ気づいていくことが大事なのです。まずは、焦ってしまう頭の状態を知っていくこと。そして、既に散り散りの安らかな気持ちを、一個ずつ拾い集めていく。土日の自分は、そうやって少しずつでないと顔を出してくれません。
 昨日の土曜日はボーッとできたから、明日の日曜日もボーッとできるだろう。そう簡単にはいきません。その日、その日で、スイッチをオン/オフにできるようなものではないのです。平日の気持ちには、スイッチがあります。朝どれだけ眠たくても、みんな会社に行くのですから。切り替えができています。でも、土日の気持ちはそうなっていないです。切り替えたとしても、すぐ湧いてこない気持ちなのです。
 じわじわ広がる土日の気持ちと、すぐ染まる平日の気持ち。この二つは両立できるでしょうか。僕は、できると思っています。むしろ、この二つの気持ちは別ものなのだから、できるんだと思っています。つまり、自分の中で、平日と土日は並行しているのです。平日の気持ちは、朝起きたらスイッチが入ります。土日の気持ちは、通勤途中や、昼休み、帰った後に、「土日何しよっかな」という思いとして、ひそかに続いているのです。
 なので、実際に土日になり、平日の気持ちが優っても、実はそんな簡単に、土日の気持ちはなくなったりしません。だから、毎週の土日はワクワクするのです。なので、最近の土日がうまく過ごせなかったとしても、そんな自分を否定しないでほしいのです。土日の自分は、ちゃんと残ってます。むしろ、その日、少しは安らかだった時間のことの方を、思い出してほしいのです。毎週ごとに、繰り返し、繰り返し。なんかやらなきゃサイレンが鳴る前には、公園で遊ぶ子どもの声が、聞こえていたんです。

 

自動車が通り過ぎた後で

 毎日、どこかで、土日の気持ちを思い出す。そうやって、平日の間にも、土日の気持ちを忘れないでいく。土日に向かって、その気持ちをちゃんと維持していく。それは、土日の姿勢を作るということです。対して平日は勢いです。思えば割と何とかなってしまう。身体がそうならされているわけですから。
 しかし、この「思えば」では、姿勢は作れません。平日の勢いを繰り返しても、その勢いは生まれては消えていくだけの繰り返しなので、土日の姿勢ができていくわけではありません。姿勢はじわじわ流れているものです。勢いがなくなった後、フッと、感じるものです。だから、仕事の合間に、余計なことを考えてしまうのです。
 その余計なことが、土日の姿勢を作るきっかけになります。ただ、あくまでカケラです。少しずつ集めないと、その形はわからないままです。考えてしまった余計なことは、まだ余分なことなのです。だから、すぐ実行しようとしてもできません。その時いるのは会社ですから。変なことをしてはまずい。
 なので、態度に出ないように、余分な考えを覚えておきます。そうやって、その考えが集まってくればくるほど、自分の土日の姿勢ができていきます。そう考えると、毎日、土日を楽しむヒントを拾うことができるのです。土日のヒントは、平日だからこそ発揮できる勢いの合間に、浮かんでくるのですから。公園で遊ぶ子どもの声は、平日という自動車が通り過ぎた後に不意に聞こえてきます。そして、その声を頼りに、公園入口の横断歩道を渡る。そうするとその子どもが誰なのか。だんだんわかってくるはずです。

 

自分裁判で寝れない土日

 これから、土日をちゃんと過ごすための姿勢の作り方について話していこうと思います。平日に仕事をしながら、土日を充実させ、気持ちよく、月曜日に起きれるようにしていきたい。目標は、その、月曜日に気持ちよく起きれるか、です。仕事めんどくさいな、起きたくないな、ではなく、土日なんか楽しかったなぁ〜、来週の土日は何しようかな〜と、少しワクワクしながら、会社に向かうような気持ちを、作って行きたい。
 なぜ、この話をするかというと、僕自身が、土日をちゃんと過ごせてなかったからです。平日は仕事で疲れて、翌朝起きても眠たい。いつもギリギリ会社に間に合うまでベットの中でした。それで、やっと平日が終わって、金曜日は安心して寝れたはものの、目が覚めると何かしなくてはと、やたらいろんなことをし始めます。本を読んだり、映画を見たり、遠くまで歩いたり。
 とにかく、色んなことの数をこなせることが、土日の充実につながると思っていました。反対に、数をこなせないことが、いけないのではないか。そう思い込んで焦っていました。土曜日の朝、予定を考えます。その予定には、もうメモがびっしりなのです。とてもこなせるスケジュールとは思えない。でも朝はそんなこと思いません。よし、やるぞ、そんな前のめりの気持ちです。
 頭が前のめりになっていますから、身体は疲れても、頭だけはまだ回転しようとします。その日のスケジュールは大体うまくこなせませんから、夜は、なぜそれができなかったのかの大反省会です。できない自分が被告人となって真ん中に立たされ、周りから、なぜお前はそうなんだと、ガンガン言われ続けます。子どもの声に誘われて公園に行ってみたものの、そこは裁判所だったのです。そんなの、うまく眠りにつけるはずがありません。土日は自分の時間だったのに、ゆったりできない。

 

一挙手一投足が裁判の対象

 土日は、誰かの時間ではありません。平日は、誰かの時間です。会社で決められた定刻に従って、出勤し、昼休みがあり、退勤します。そんな働くリズムが決まっています。でも土日は、出勤する必要がありません。誰もいませんから、土日に行っても。みんな、家にいます。
 みんな家にいるなら、自分も家にいていい。家にいる間は、誰も自分の過ごし方について口出ししません。プライベートってやつです。スピード感を持って、過ごす必要はないのです。誰も責めません。誰も何も言ってきません。
 こんなふうに、言ってこないのはわかっているのですが、何かいつも言われているような気持ちになってくる。僕は一人暮らしですから、実際には家には1人なんです。でも、そんなぼーっとしてていいのかと、透明な声が、僕の背中を叩いてきます。後ろを振り向いても誰もいません。
 そうやって、自分の背中をみては、あれ、次何しよと、考えることを急かされ、前を向きます。そして気づいたら、もう夜です。お風呂を入りながら思います。あー、今日もたくさん仕事した、明日は残りの仕事しないとなと。明日は日曜日なのに。というか、自分のことをしているのに、仕事って思ってます。そんな大反省会がベットで起こるわけですから、自分の一挙手一投足が、裁判の対象になります。

 

帰りのホームルームの裁判

 自分の土日にやること一つ一つは、自分が考えたことです。自分がこれをやろうあれをやろうって思ったのです。だから、自分の時間です。じっくり、味わう時間なのです。自分のことだけずっとできると思うと、すごく土日って最高なのです。
 でも、時間通りには進まないのです。自分のことばかりが多すぎる。自分ができないことを見込めない。自分だけの行動だと、リズムが作れないのです。誰かと一緒に動いていないと、リズム感はどこかにいってしまう。
 会社では、そのリズムがわかりました。朝、挨拶して、昼休みになって、3時ごろに、後もうひと踏ん張りみたいなムードが漂います。そんなふうに、ざっくりとした時間割があったのです。思えば、学校の時間割もありがたかった。一時間毎に何かするか決められて、休みの時間も1分単位で書いてある。それが黒板横に貼ってあるのを、みんなチラチラみていたのです。
 時間割があったから、みんなと一緒に動けていました。そろそろ昼ごはんだから、あと一時間頑張ろうとか、そんな息の抜き方もできました。でも、土日だとそんなのないですから、息を抜く事ができません。というか、頑張らなくていい。一体、何を頑張っているのでしょうか。なんで、寝る前の帰りのホームルームの時間に、裁判になってしまうのか。

 

土曜参観で張り切る先生

 土日には学校がない、ましてや学校にすら行ってないのに、毎夜、終わりのチャイムがなる。先生がいつものように教卓前に戻ってきます。そして、「今日は、みんなにお話があります。少し長くなりますが、大事な話ですので聞いてください。」と言うのです。裁判官です。そうして、誰が悪いかはわからないように生活指導が入ります。それで、自分が頑張り足りなかったことを悟り、帰り道は、自分で自分を責める時間になっていく。
 問題は、土日の夜に、先生が出てくることです。平日ではないので、会社の人は出てこないのです。だから、土日の頑張りは会社の人のためではありません。先生のために、土日は頑張ります。では、その先生とは誰なのか。
 小学校では、土曜参観がありました。親が見にきて、先生はなぜかスーツを着ている。僕はその日が、何か特別な日のようで、結構楽しかったのです。となりの友だちは、月曜日が代休になるからそれで嬉しそうだったのですが、僕は、土曜日に、親に授業の様子を見てもらうことが、面白かったのです。普段と違う緊張感の授業が新鮮だった。それは、先生が緊張していることから感じられました。この土日の先生は、親にみてもらう先生だったのです。
 土曜日に来る授業に来る親は、もちろん、平日には来ません。だから、平日からやってきたのが、親です。そこで、先生はいつも以上に張り切って、教卓の前に立つのです。つまり、平日の親が、先生を頑張らせる。その先生が、土日の夜にやってくるのです。なので僕は結局、平日のために頑張っているのでした。土日はありませんでした。毎日が、平日でした。

 

平日5日間の授業をなくす

 毎日が平日だと気づいた時、僕は仕事に行くのがつらくなりました。このまま働けるけれど、このまま働くのかぁ...うん、楽しくないなと、素朴に思いました。楽しみであるはずの土日ですら、形だけのものだったのですから。今の仕事の入り方だと、これからもずっと楽しいことないなと思いました。そこで、仕事の入り方を変えることにし、正社員から、フリーターになりました。
 フリーターになったのは、別に職場環境が悪かったからではありません。少人数のところで働いていて、わからなければ声を互いに声を掛け合ってやっていく仕事場でした。ミスしても怒られることはほとんどなく、問題解決型で、ちゃんと振り返っていけるような職場でした。
 なので、仕事がうまくできなくてやめたくなったのとは少し違います。その頃はまだ働き始めて半年も経ってなかったのですが、それだと仕事ができないのは当たり前だし、むしろ、どんどんできないことを見つけていって、少しでもうまく仕事を覚えるようにしたいと思っていました。
 僕が正社員をやめたのは、仕事ができないからではなく、仕事を含めた自分の生活が、うまくいかなかったからです。土曜日の反省ホームルームが、僕にとっては日曜日にもあったのですから、とにかく、平日の延長線上として土曜日に入ることから変えないといけない。平日5日間の授業をなくす必要があると思いました。なので、今は、週に3日アルバイトで、フリーターをしています。

 

先生になりたかった

 フリーターになり、形だけの土日もなくなりました。同時に、平日もなくなりました。僕に残ったのは、毎日だけです。でも、平日の毎日ではありません。ただ、1日1日があるといった感じです。バイトの日はバイトの日ですが、立場上責任も感じ過ぎずに済むし、週の休みの方が相対的に多いので、いつまでもバイトのことを考えなくて安心できています。
 思えば、正社員の時は毎日仕事のことを考えていました。土日に何か本を読んでも、それを仕事場に置き換えて考えたり、少し遠出しても、それは月曜からどんな仕事の態度で向かうべきかをふしふしと思ったりしました。
 土日には自分の好きなことをやっていたつもりが、そこから得られたことは全て、仕事につながるべきものだと考えていました。そうやって考えられる人が、仕事ができる人なのだと思っていました。つまり、いつも仕事が頭にある人、仕事のために頑張れる人です。小学校の先生が、そういうイメージでした。先生は、一つの教科だけでなくって、本当にいろんなことを知っています。先生の授業の冒頭は、身近な話題から入って、僕を引き込みます。僕にとってあるべき先生は、自分たちの生活のどんなことも授業にしていけることです。それが、僕の仕事する人の像でした。だから僕は、先生になりたかったのだと思います。
 先生は、授業という一つの仕事のために頑張るのです。そのために、日頃の生活の全てを、授業の材料にできるべきなのです。僕は仕事をそんなふうに考えていましたから、土日なんてやっぱり欲しくなかったのです。自分の全ては、平日という一つの仕事のためにあったのですから。

 

先生の授業と子どもの昼休み

 そういうわけで、平日に浸された生活からとにかく離れ、カラカラに乾燥させた、穴らだけの1日ずつを始めていきました。そんなスポンジのような状態で、しっかり、自分の時間を吸っていきたかった。1日ずつ過ぎていく間で、自分の時間を作りたかった。
 ただ、いざ、フリーター生活が始まって最初の頃は、よく自分を責めていました。正社員をやめたのはやめたで、時間が増えたことはいいのだけど、じゃあ何をするのか。それがわからず、日中ベットでじっとしている自分の布団が、どんどん重くなっていくように感じていました。
 それでもなんとか、楽しくないなと思った感覚を頼りに、この日を楽しくしようと思い、布団から起き上がります。土日なんてありませんが、でも、土日に味わったはずの、ダラーッとじわじわ嬉しくなってくる、あのヨダレみたいな感覚を、どうやったら取り戻せるのか、その目標のために、生活に工夫を入れていきました。
 もちろん、土日のような平日になってはいけません。予定を埋め過ぎない、焦らない、反省会のない土日です。ただただ、ヨダレの垂れる、楽しい土日を目指しています。それもひいては、平日ですら、いつでも土日であるようになれば最高です。僕にとって平日/土日という区分は、形だけのものではなくなったのです。1日の中に、先生の授業と子どもの昼休みがあるのです。その当たり前だった感覚の取り方を、今、文章にできています。

 

職員室にいる先生から

 これから僕が文章にしていくことは、そのフリーターでの生活をもとにしています。週3でアルバイトという条件で、それ以外の休みの日に、どう過ごせばいいかを考えてきた結果です。そうすると、週5日で働く正社員の条件とは、異なってきます。
 しかしそれでも、役立つところがあると思うのです。平日働く以外の土日は、休みの日です。僕が週3で働く以外の日も、休みの日です。僕は、休みの日の楽しさをどうするか考えています。土日という区分は関係ないんです。土日のような休みの楽しさだけを、僕は頼りにしています。
 頼っていく楽しさというのが、姿勢を作っていくということです。それを前の方で、土日の姿勢を作ると言いました。改めて言うと、土日に向かう姿勢です。それは、毎日、少しずつ作られていくからです。平日の間にも、土日に向かっていくのです。それは授業中に、つい今日の給食なんだっけ、お昼はドッチボールしようとかって考えるのと似ています。
 子どもの昼を充実させたいその気持ちが、土日への姿勢に欠かせないのです。僕はその姿勢を忘れてしまい、パソコンに向かって、前のめりの姿勢になっていたのです。職員室にいる先生だったのです。それでも、時には、背もたれにもたれかかって、背伸びをしていたのです。その時から僕の背中にはシミが、漠然とした不安が増えていったのでした。土日を充実させようとするのに充実していないのではないかと。そんな背もたれの無さを抱えている方に、是非読んでいただけたら幸いです。

 

*第一章は、来週に掲載予定です