1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

毎日、土日の作り方 第七章:河にツララ

           

 

洞窟のツララ

 メモリストは、不安とうまく向き合っていくための道具です。不安は、そこから逃げても、どこまでも追ってきます。不安は、姿がみえないからです。だから言葉にしていく。言語にして、目にみえるようにしていく。そうやって、安心に変えていく。
 不安は安心に変わっても、それはやはり一時です。だから、また不安はやってくる。ですが、安心している時間は、やっぱりその満足感に浸ることができる。不安なことは忘れることができる、というよりも、不安なことは、ないと、思える。
 安心している時に、どうせまた不安がやってくるんだと思っていると、それは安心できない証拠です。安心している時は、本当に不安を感じている余裕はないはずです。余裕がないから、不安を感じなくていい。
 平日に、ふいに自分が浮かんだ言葉、その心と頭のスキマを、ちゃんと埋めていくことが、メモリストを作っていくことです。だから、スキマをなくすこと、心と頭が離れたその距離を無くしていくことが、メモリストを作っていくことです。洞窟から垂れるツララのように、伸ばしていく。

 


落ちそうな水滴

 心と頭の距離を縮めていくことは、心と頭をくっつけるということではありません。心と頭には絶対にくっつかない。磁石同士の同じ極をくっつけようとするあの感じです。限りなくつけようとしても、ずるっとずれてしまう。
 だから、メモリストを作ることは、その距離を言葉にしていくということなのでです。縮めない。言葉に置き換えていく。橋渡ししていくだけです。心が発した声を、頭が言葉に置き換えていく。その言葉の流れがいいほど、声の元である心にも近づくのです。でも、心は毎日変わっているので、すぐまた別の声が、違うところで鳴っている。
 だから、ツララを垂らす位置は変えないといけない。項目を並び替える。今日の一番目、二番目、三番目...があるのです。僕の場合は、もっと変わってきます。一つのことをやった後、二番目、三番目が入れ替わることだってかなりある。それくらい、心は変化が激しい。
 洞窟には、音がする。ポタポタと、水滴が落ちる音。天井から落ちる水滴は、そのツララを作ると同時に、その床に、落ちる音をもたらす。その向かう音が、言葉を連想しようとする方向です。その音が落ちそうなところから、どんどん、言葉を垂らしていくのです。

 


若さがうつる氷柱

 言葉を垂らしていけば、水滴はどんどん床にまで伸びていき、いよいよ、一本の氷柱になる。その項目は、一つ完成するわけです。つまり、自分のすることが出てくる。
 氷柱に人は感動するように、自分のすることが出てきた時も、少し感慨深いものがある。最初はよくわからない抽象的な言葉だったのに、最終的には具体的な言葉に変わっていった。それには、長い年月がかかったように思えるのです。ただそれは、体感です。実際には、1日から1週間ぐらいで、自分のすることはみつかってくる。僕の場合はですが。
 この体感としての長さというのは面白いもので、要するに、その項目の連想がゴールした時、そのゴールが運命的なものに思えてくる。その最後の言葉に至るまでの道筋は、それ以外はあり得なかったように思えるのです。言葉の一つ一つが、ちゃんと存在して、今最後に出会っている。
 そこから、その連想の始まりを遡ってみると、若返ったようにも感じます。脱皮したかのような、皮をどんどん剥いでいったかのような感覚がやってくる。昆虫のように、成長はしないのです。むしろ、小さい頃に戻っていく。退化ではないのですが、積極的に初心を取り戻したような風が吹く。完成した氷柱には、若い自分の姿がうつっている。

 


土日という外へ

 メモリストは、自分のすることを生み出す機械のようになっていきます。ぽんぽこぽんぽこ、次に自分が動けそうなものを生み出していく。その過程を経て、ようやく私たちは、土日に持っていくことができる。
 平日は、リストをずっと触り続けます。そして、することが出てきたら、土日にすること、という項目を作り、そこに加えておく。実際に土日になったら、朝、その項目を眺めます。
 することがあるという土日の朝は、安心です。これは、メモリストがなかった時とは違います。焦りがないからです。なぜなら、その土日の項目は、平日に少しずつ考えてきたことだからです。何度もみて、少しずつ言葉を付け加えて、ゆっくり確かに見つけていった事だからです。
 いずれ、土日の項目にはどんどんすることが増えていくでしょう。そうすれば、平日のリスト作りと同じように、ピックアップして、優先順位をつけてください。メモリストと、TODOリストは、同じ容量でやります。洞窟にできた氷柱は、選んで切り取って、土日という洞窟の外で使います。

 


未知の世界としての土日

 リストが二つに増えました。普段、平日に考えたことを書くリスト。実際、土日にすることを書くリストです。ここから、いよいよ土日の姿勢づくりの後半です。
 前半は、土日にすることを考えるために、思いつくために、自分で納得するために、メモをするということを考えていきました。これまで、土日が忙しかったのは、とにかく、無理やり全部詰め込んでしまっていたからです。そして、問題だったのは、その全部が頭の中だけで処理されてしまって、ちゃんと管理できてなかったことです。だから、平日のうちに視覚化をして、ちゃんと、することを把握しようとしたわけです。
 そういうわけで、土日にすることリストは、自分が平日から考えていたことであるので、ちゃんとやることが明確になっていると思います。漠然と、なんか外に出よっかなーではなく、外で何をするのか、あそこのスーパーに行ってみるとか、ちょっと普段行かない公園に行ってみるとか、具体的な目標になっています。
 ただ、いざそれらをやっていくと、目標が達成されなかったことも出てくるはずです。スーパーが閉まっていたりとか、スーパーで買いたい商品が売ってなかったりとか、思ったより高かったとか。土日にすることはあくまで予定であって、実際にその通りうまくいくとは限りません。洞窟の外は、予想ができない、未知の世界です。

 


日差しの向こう側

 土日にすることリストは、土日にできることのリストではないのです。できると思ってしまうと、できないことが絶対ついてくるので、落ち込みます。できないことなんて最初からないのです。ただ、することをやってみた結果があるだけです。
 なので、実際にしてみて起きたことは、大事なことです。できないからやめとくということにはなりません。せっかく、知らない世界に出たのに、その情報を持って帰らないわけにはいきません。やってみた結果は、メモをしておきましょう。
 結果のメモは、土日にするTODOリストの項目として書いておきましょう。そうです、ここから、また連想を始めたらいいのです。要するに、次の改善策をどうするかです。連想のスタートは、実際に起きたことから始まり、連想のゴールは、次にどうするかで終わるのです。これは、平日のメモリストと同じです。
 TODOリストの連想の方が、スリルがあるかもしれません。自分が経験したことを、思い出しながら書くからです。最初に気づかなかったことも出てくるかもしれない。経験という塊を、解いてくのです。これは、不安という塊とはまた違います。そんな暗くてじめっとしておらず、向こうはどうなっているんだろうと、明るい、日差しの向こう側への想いです。

 


逆再生の視点

 TODOリストの項目は、結果の項目です。対して、メモリストの項目は、声の項目です。声は、不安からやってくるのに対し、結果は、想いからやってきます。声を拾うには、耳を澄ます必要があるのに対し、想いを摘むには、目を澄ます必要があります。つまり、やってみた結果を捉えるには、ちゃんと、その時の様子をみておかなくてはいけないからです。そうしないと、あとで思い出せない。
 ちょっとここで、仮にやってみましょう。「スーパーに行きたい」というすることがある。しかし実際に行ってみたら、閉まっていた。ここに、「閉まっていた」という項目が立ちます。ここから次の改善策を連想します。
 「閉まっていた」「なんで気づかなかった」「何をみて知った」「Googleマップで知った」「なんで営業時間気づかなかった」「いや、Googleマップで営業時間見てた」「でも閉まってた」「Googleマップの情報が間違っていた」「じゃあ正しい営業時間はどこから」「ネットのホームページから」「じゃあ実際に調べてみて...」「あ、21時までなんだな」「じゃあ次は、20時までにはいくようにしよ」。
 というふうに、自分の経験を映像のように思い出しながら、連想していきました。ここでは、どうなっているかという観点ではなく、どうなっていったか、という観点で連想をしました。映像を再現するように、連想をする。その逆再生される映像において、自分がどんな動きをしたのかをみるようにする。そんな、逆再生の視点を持ってください。

 


自分だけの行き方

 TODOリストの項目を、どうなっていったという観点で連想した後は、先ほどのように改善策が出てくる。そうしたら、項目名を、気をつけることとして更新すると忘れません。
 先ほどの例で言うと、「閉まっていた」の項目名を、「20時までに来店する」と言うふうに更新してしまう。そしたら、いちいち、連想の過程をみなくていいですし、「スーパーに行きたい」TODOのところを見れば、すぐ目につきます。
 そうやって、TODOごとに、自分のルールを決めていくのが、TODOリストの特徴です。連想のゴールが改善策に至れば、その改善策を、連想の始まりである項目名を、塗り替えるという作業です。項目という結果は、最終的には改善策へ生まれ変わる。変形するような感覚になります。
 こうして、TODOごとに自分ルールが増えていく。そうすると、自ずから自分だけのこだわりが出てくるはずです。土日のすることは、自分のすることになっていく。洞窟の外に、自分だけの行き方をみつけるのです。

 

あと引く場所

 自分だけのルールができてくると、そのTODOはとってもオリジナリティのあるものになります。あなただけの行為になる。それは、毎週土日が来るたびに積み重ねられた大事なものです。
 だから、そういうTODOは一生ものだと思いたくなります。宝物です。例えば、僕は自分でスコーンを作っています。最初は失敗して、なかなか膨らんでも生焼けだったり、スコーンならではの味がしないなど、問題が起こりました。しかし、回数を重ねていくにつれ、こうしよう、ああしようと、少しずつ工夫が増えていった。そしたら、ある時、できる瞬間がある。思わず、「よしっ」と言ってしまいました。それからというもの、そのスコーンは、自分のスコーンになって、「うふふ」な気分で食べれるようになりました。
 最初は失敗の連続で、やりたくないこともあるかもしれない。でも、やっぱりやってみたいという気持ちはあるわけです。その気持ちを携えて、繰り返していくと、ああ、やっぱりやってよかったという瞬間がやってきます。自分のTODOリストは、そんな「うふふ」で満たしたい。
 洞窟の外で、自分のお気に入りの場所を見つける。最初はその場所で何を楽しめばいいか分からなかったけど、だんだんと、少しずつ発見してくるものがある。だから、また、その場所に行こうと思える。あと引く場所になる。

 

自分のスケッチ

 色々なTODOをこなしていると、本当に楽しくなってきます。全部が、それぞれ、別通りの仕方で、大事になってくる。一つ一つが、輝いてくる。人に自慢しようとは思わないのです。自分が、自分の一部分を好きになるのです。だから、別に人のことなんて気にしない。気にする暇もない。
 TODOが大事になってくると、もう、来週はどうするかを考えるのが止められなくなります。それが楽しいからです。自分の輪郭は、自分が思った以上に広い。つまり、どんどん、ルールというものはできてくるのです。
 TODOが楽しいのは、ルール作りが楽しいからです。それは、自分がそのすることによって、どんな身体の動きが合っているのかを書いていくことでもあるのです。だから、自分の輪郭といったのです。
 そのすること、という輪郭は、何重にも線を引いていい。ルールはどんどん更新されていい。そうすると、一つたまたまはみ出た線から、また新しい輪郭が出てくる。新しいルールの誕生です。すると、自分がまたぐんっと、はっきりする。スケッチするのです。TODO作りは、自分のスケッチです。

 

自分と場所の結び目

 TODOを試して、その結果を書き、項目というルールを作っていく。それが、自分をスケッチするということです。そしてその時の自分は、そのTODOを行った場所にいる。
 例えば、僕がスコーンを作るTODOについて、毎回結果を書いていく。材料の配分や、焼き加減、等々のルールができていきます。そうやってルールができていったのには、オーブンが1000wで強力なものであることや、材料がホットケーキミックスであることなど、その場の制約というものがつきまとっている。
 スケッチされた自分は、そういう種々の条件のもとにルールを作っているのです。だから、できてきたルールというのは、その場所のことでもある。もっと正確に言えば、ルールとは、自分が動いたことと、その場所の条件との折衷です。そのつながりがあって、その結び目が、ルールです。
 なので、もしオーブンが変われば、焼き時間も変わってくる。ルールが変わるのです。反対に、自分がもっと柔らかい食感にしたいとなった時でも、焼き時間は変わってくる。だから、ルールは、自分と条件の間に成立しているし、いつでも変わりつつあるのです。だからこそ、ルールもそのルールでいいか試し続けたくなり、それは、TODO自体を試し続けたくなることになる。自分と場所の結び目は、絶えず締まったり緩まったりするのです。

 

親ガモ

 TODOリストは、そんなふうにしっかりした内容になってくる。メモリストの方は、拡散してどんどん増えていきますが、TODOリストは、反対に収束していきます。ですが、そこには穏やかな拡散もあり、それが、ルールが更新されるということです。
 そうなると、一つのTODOに対しては、ルールが複数ついていることになり、それらのルールも、ルールAは変化して、ルールBは変化しないということが起こってくる。複雑な関わりとして並んでいる束のようになってくる。
 一つのTODOをすれば、自ずからそれにまつわるルール群がついてくる。子連れのカモのようです。子どもは、生まれた時にその親の元にいたからついてくる。連れていくのです。親があっちいけば、子どももあっちいく、こっちけば、こっちいく。
 同じように、そのTODOをすれば、ルールもついてくる。自分がどう動けばいいのかが、自然と出てくる。スコーンを作る時に、材料配分をどうすればいいか、焼き加減をどうすればいいかが、メモを見ずともわかってくる。身体に染み付いてくるのです。TODO自体が、習慣になってくる。親ガモになるのです。

 

親子でそれぞれ

 習慣になっていくTODOは、自分にとって当たり前のものになっていきます。歯磨きは、誰しも習慣になっているものですが、だから、歯磨きするのは当たり前です。ただ歯磨きは、みんながする習慣です。歯磨き昨日しなかったって友だちにいってしまうと、え、って顔をされるでしょう。それは、みんなの習慣だからです。でも、習慣は個人的なものでもあります。
 僕は、毎朝目覚ましを使って起きません。でも、ほとんどの人は目覚ましを使って起きている。つまり、みんなの習慣としては目覚ましがあるけれど、僕の習慣としては、目覚ましはない。同じ起きるということについても、みんなと個人では、違ったりする。
 それくらい、自分個人の習慣というのは当たり前のものなのです。どうしても、それをやらなずにはいられない。というか、やらないことは考えない。自然としてしまっているからです。もちろん、やろうとするきっかけみたいなのは頭にあると思います。「あ、歯磨きしよー」って思うとかってことです。
 そうなってくると、習慣となったTODOは、土日に絶対やることになってくる。そうすると、優先順位なんてつけられません。することが当たり前だからです。平日のメモリストでは、言葉を付け加えるための優先順位をつけたりしましたが、TODOリストでは、することの優先順位が想定しにくくなる。親ガモが二組、河で泳いでいるのをみて、別にどちらが大事だとか思わないでしょう。それぞれ、親子なんだなって思う。どちらか順番が前後してても、別にそれがその親子自体の優劣を意味するわけじゃない。

 

見つからない休み場所

 優先順位がつけられるメモリスト、優先順位がつけられないTODOリスト。この違いが引き起こす問題はなんでしょうか。そもそも、優先順位をつけていたのは、メモリストにおいて、それを眺めて深掘りする時間がないからでした。時間の問題です。
 もし、TODOリストにおいて、やることの習慣が増えていけば、どうなるでしょうか。単純に、時間が取られます。土日は、自分だけの時間で、たくさん時間があります。でも、することは決まっている。
 今日はこの習慣とこの習慣をする、来週は別の習慣をする、みたいな言い方はできません。習慣はこれくらいあるのだから、普通にこなしていくだけです。
 ただ、そのこなす数が、どんどん多くなってしまう。そうなってくると、時間の問題が出てきます。土日を平日の気持ちで、焦って、次々やるようなことはなくなりましたが、こつ、こつと、色々なことをやっていっても、今度は1日の終わりが来てしまう。親ガモたちは、夜暗くなるまでに、休む場所までいかないといけないのに、それが見つからない。休める場所とは、一つの習慣を終えたという意味です。つまり、習慣はあるのに、それを終えられないということが出てきてしまう。

 

暗い暗い河の真ん中

 習慣ができないことと、メモリストで深掘りできない項目があることとは、かなり違います。ショックです。項目が深掘りできなければ、また明日、優先して、考えればいいと思うかもしれませんが、習慣の方は、今日しているはずだったのに、それができなかった、その事実だけが突きつけられる。
 習慣には、明日やればいいとかという考えはありません。毎日するものだからです。それが、その日できないとなると、これから毎日がおかしくなる。毎日これでやっていこうと思っていたものが、崩れるのです。
 この全部崩れる感覚は、メモリストだと、ある項目ができなかったら、その日がダメだという風になるのと似ています。しかし、TODOリストの崩壊の方が壊滅的です。その習慣ができなかったのなら、もう、毎日がダメだ、という風になってくる。土日だけの習慣にしても、これからの土日はもうダメだ、という思いに襲われる。
 メモリストの崩壊感覚は、自分に対してですが、TODOリストの崩壊は、自分以上に、人生に対してです。だから、とっても深刻なのです。諦めるとか、そんなことすら考えることはできない。突然、真っ暗が自分の行き先を塗り落としてしまう。足元すらなくなる。動けなくなる。日が暮れるのに間に合わなかった親ガモたちは、ただ、暗い暗い河の真ん中で、怯えるしかないのです。

 

暗い河から取り残される

 できない習慣が一つでもあることが、ここまで問題なのは、それが自分の身体の動かし方であるからです。もはや、自分の身体の一部なのです。歯磨きは、もちろん、歯ブラシは自分の身体の一部ではありません。しかし、その歯ブラシを持って、歯を磨く、その行為は、自分の身体の一部です。
 習慣は、使っている物を、道具としては意識させずに、自分の感覚を通して使っていけます。歯磨きをしているその最中には、歯ブラシを持っていることは意識しません。その歯ブラシで、歯のどこにあたっているのかを感じているのみです。言葉で説明するため、歯ブラシを使って、という言葉が出てきましたが、実際に歯磨きをしているときは、ただ、歯を磨いているという感じしか、ないのです。
 歯を磨いているのは、誰か。自分です。自分の身体です。だから、歯を磨く習慣は、自分の身体の一部です。それは物だけでなく、その時の照明や、鏡も、取り込みます。ただ、その行為が終われば、歯ブラシは歯ブラシとして、照明は照明として、また存在し始めます。
 習慣は、周囲の条件を取り込むというよりも、借りていると思った方がいいでしょう。周囲の条件を借りるということが、習慣であるということです。その習慣が一つでもできないとなると、周囲から切り離されることになる。自分の身体は、その場所があってのものです。その場所がなくなる、これが、習慣ができなくなることのショックです。暗い河に浮かぶ親ガモは、河からも取り残されてしまうのです。

 

ポンデリングとしての習慣

 習慣とは、周囲の条件を借りることであると言いました。そして、その習慣は、TODOリストの数だけあることになる。僕たちは、その都度、周囲の条件を借りて暮らしていることになります。
 ただ、例えば、起きて、歯磨きして、ご飯を作って、という暮らしで考えてみると、その度に借りている、ということを意識しているとは考えにくい。「歯磨きしよ」とか、「ご飯つくろ」とかって思うことはありますが、「歯ブラシがある」とか、「フライパンがある」とかっていうことを、いちいち意識することはありません。
 客観的にみれば、暮らしていく習慣の連続は、その都度条件を借りているようにみえます。ですが、自分の感覚では、そんなにその切り替えを意識しているわけではないのです。TODOリストに並んでいる習慣たちは、客観的な視ですので、切り替えがあるように見えますが、本来の、暮らす自分という視点に立つと、習慣は滑らかにつながっている。
 習慣をする、とは、TODOリストそれ自体です。リストの中のTODOそれぞれが、習慣として別々なのではありません。別々に見えているだけで、それぞれくっつきあっている。その境界ははっきりしているようで、とっても曖昧なのです。習慣も、声と同じように、ポンデリングになっているのです。

 

河の始まりと終わり

 習慣同士はつながっている。本来、そういうものであり、それでその日を暮すということで考えると、習慣は広い意味で一つです。ここでの習慣は、窪みだけが並んでいる1日の長さです。
 なので、1日の始まりと終わり、つまり、起きてから寝るまでが、習慣です。その間の、歯磨きとかご飯を食べるとかというのは、その習慣の一部です。身体の一部ではありません。それは、外の視点から、動いている人を見て、考えているからです。
 では、そうやって外の視点が生じてくる、TODOリストはどう扱えばいいのでしょうか。リストを見る時の視点は、そのTODOを自分の身体の一部だと思って、それが習慣だと思ってしまう。その習慣ができないと、自分は真っ暗闇に沈んでしまう。
 ヒントは、自分が、その日を暮らすという前提があることです。朝、起きた、夜は、寝る、という感覚があることです。つまり、その日のスタートとゴールを、うまく起きると、うまく寝るに設定することがまず大事なのです。それが、まず、暮すという視点で習慣を捉えるのに必要です。一旦、親ガモたちを見る視点から離れて、その河がどこから始まってどこまで続くのか、そこをまず確認しておきます。


河に沿って流れる

 1日という習慣を感覚として設定する。これは、充実させようという思いとは違います。充実させようとすると、それはすでにTODOの一つ一つに目が入ってしまっていて、習慣を小さく捉えてしまっている。そうではなくて、今日一日の間で、自分の身体は起きて、次第に疲れて寝たいと思うだろうと、その体調の変化をざっとイメージしておくのです。
 1日をうまく過ごせれば、実際に寝る時も、すっと眠りに入る。これは、充実したからではありません。色々やったからでも不正確です。1日を過ごす中で、いろいろなことをやったけれど、何かそれらが遠いことのようで、でも、時間はそれなりに過ぎていった、そんな感覚になる。1日が過ぎた感覚が、そのまま眠る感覚に移っていく。
 うまく過ごすという言葉を使いましたが、別に、その日の過ごし方に良い悪いはない。「うまく」というのは、「それなりに」ということです。人とも比べていません。人より多くいろんなことをしたとか、そんなことではない。自分の体調が、自分の体に対して、「お疲れ様〜」って電気を消してくれる感じです。
 ここにはもう、後悔なんてありません。これすればよかった、あれすればよかったと思うことはない。その日を過ごせただけで、充分なのです。充実ではなく、充分です。河に親ガモがどれくらいいるかではなく、河に沿ってちゃんと親ガモたちが流れていったのかが大事なのです。

 

親ガモを運ぶ河

 その日の充分を見据えて、TODOリストをみたとき、自然と浮かぶことは、どのような習慣にしていくかです。TODOは習慣の一部ですから、優先順位はつけられません。しかし、選ぶことはできます。
 なぜなら、TODOリストにあるTODO全てが、習慣ではないからです。TODOリストを充実させることが目的ではないからです。今起きた僕が、今日1日を充分にさせることが目的です。そのための、TODOリストです。だから、TODOは選べるのです。
 僕の場合は、大体、こうやって文章を書くこと、本を読むこと、ギターを弾くこと、絵を描くことの四つが、TODOになっています。それで、これらを含めたその日を過ごすことが、僕にとって充分な習慣になっています。
 今、僕にとってお休みの日は、すごく落ち着いています。確かなやることがあって、でも、色々やろうとする自分には振り回されない。なぜなら、毎日を過ごすことだけが、僕にとって一番確かなことだからです。その確かの一部として、やることがあるだけだからです。河は最初から最後まで、親ガモたちを乗せて、どんぶらこ、どんぶらこと、運んでいくだけです。

 

*第八章は、今週掲載予定です。