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毎日、土日の作り方 第八章:森のまばら

                                   


木がまばらな道

 お休みの日にゆったり過ごせなくなっていることが、僕は本当に苦手でした。仕事を始めてからは、そのゆっくり過ごすことすら忘れていた。いろいろなことをしなくては、寝れなかったのです。
 とにかく、頭を使って、使って、使いまくって、もう考える根っこみたいなものを削ぎ落としてから、ようやく、ベットに棒切れだけ放り込むことができる。細い体です。もう、性根使い果たした感じで寝るばかり。
 土日にすること一つ一つを、大事にできていなかったのだと思います。一つ一つは一生懸命やっていました。ですが、それを習慣にして、繰り返して、味わうということをやっていなかった。大事にするとは、絶えず使う物に対してもいうように、自分のすることについても言えるのではないでしょうか。
 土日にはたくさん時間があり、色々なことができますが、味わうことを覚えてから、実際にそんな多くのことはしなくていいと思えるようになってきました。むしろ、自分が休みの日を充分にするのに、本当に必要なことって何なのか、それは抽象的な目的とかではなく、ただ、自分がする具体的なことを、探し始めたのでした。土日という森に、そのまま惑わされることをせず、木がまばらに生えている道を、探そうとしたのでした。

茂みに隠れた道

 先にも書いたように、僕は今、本を読んだり、文章を書いたり、ギター弾いたり、絵を描いたりしてます。それぞれ、個人的なルールを設けてやっている習慣です。
 この狭い意味での習慣を、その日暮らしに淡々と進めていくというのが、広意味での習慣でした。小さな習慣たちが、連綿と進む、そんな1日。この、淡々ぶりを、僕はどこかで経験していますし、それは皆さんも同じだと思います。
 小学校の時の時間割は、その進み具合と似ています。授業ごとに時間が決められて、授業内容も決まっている。その順番に従って動きます。ある意味で、みんな淡々としている。ですが、放課後は自由です。もちろん、夜ご飯まで、という時間制限付きではありますが、その時間で本当に色々なことをしようとしました。
 この放課後の自由感が、ずっと僕の後を引きずっていて、それが土日を焦らせていたのだと思います。大人になった土日は、放課後はありません。もちろん、子どもの頃の土日にも何もなかったのだと思いますが、あまり思い出せない。覚えていることは、授業のある平日の頃ばかりなのです。そういう意味では、僕は、子どもの頃の土日を思い出そうとしているのであって、ただ、それは大人になった今、もっと真剣に、考えようとしているのだと思います。森にあったはずの道は、今、茂みに隠れてしまっている。

道を探す体力

 淡々と進む休みの日を、もったいないと感じる方もいるかもしれません。でも、やはりそれは、その日を充実させたいと考えているからだと思うのです。僕は、充分であって欲しい。
 充分であるためには、休みの日にすることを、やり過ぎないということが重要です。それが、小さい習慣の意味です。また今度、繰り返すことができる、だから、今日はこの辺までにしとこう。そんなふうに、加減を決めていくことが、TODOのルール作りの目指すところになってきます。
 例えば、僕の文章を書くことであれば、1日で2000文字ぐらいしか書けません。色々、たくさん書いてみようと思いましたが、かけることもありますが、休みのある時に同じようにできるとは限りませんでした。2000文字書くのに、1時間はかかってしまいますから、でも1時間以上はもっとしんどくなるので、ちょうど良い量だと思っています。
 こういうふうに、また今度できる加減がルールになっていく。なのでまず、そのTODOをやって、どれくらいでしんどくなるのか、続けられそうなのかを考えるのがいいと思います。量や時間をそれで調整してみてください。そうすれば、自分の身の丈にあった加減が見つかります。そうすれば、その日にもっと一生懸命やらないことを、もったないとは思わないはずです。森にあるはずの道を探すのにも、自分の体力をわかっておく必要があります。

同じ入り口

 自分の加減に調整され始めたTODOは、とっても楽になります。歯磨きするか、お風呂入るか、と思うのと同じ感覚で、今日も文章書くか、絵を描くか、と思うようになる。
 土日だから一生懸命やるんだと思ってしまうと、もっと気負い込んでしまうはずです。今日こそ、文章書くか〜、みたいになってしまう。もっと、素朴な感じで、土日だから文章書くか、のように淡白にしていきたい。
 そうやって自然に入れるようになってきたら、あとは、いつも通りにこなすだけです。ただ繰り返します。工夫しようとかも思わなくていいのです。向上したいとは思います。でも、最初から向上しようとは思わないことです。
 まず、続くかどうかが最低限のことです。それで続けていけば、飽きてきますから、例えば文章でも、書き方に飽きてくる。そしたら、自然と工夫を始めようと思います。工夫は、飽きるのを待ってからにします。そして、飽きが来るのは、毎回続けていることがあってこそです。森の道を探すとき、色々な入り口から行くよりも、同じ入り口から行った方が、森の様子はわかってくると思うのです。

いつもの木

 習慣を毎回続けていると、内容に飽きが来ますが、取り組んでいる時間は一定のものになってきます。最初は多く時間をかけていたのが、だんだんと時間を減らしていくことになる。疲れを通じて、身の丈を自覚し始めるからです。
 ですが、そういう時間が決まってくる前までが厄介です。どうしても、もっとできるのではないかと思ってしまう。書くことを2時間できたとして、もっと、書けたのではないかと思ってしまう。あと1時間書けば、もっと進むのになと思ってしまう。
 習慣が始まった当初は、自分がどれくらいで疲れるかわからない。だから、実際に疲れていたとしても、気づきづらいところがあります。疲れの兆候は、本当に微妙だからです。書くときで言うなら、文章の滑らかさにちょっと滞りが出始めたり、すらすら言葉は出てくるが、その中身が空っぽになって面白くないものになっていたりする。
 そういう疲れの弱い印に気づくことが、習慣を続けられるようにするコツです。その弱い印が、続けていくたびに出てくるようになる。調子悪いな、という言葉としてです。森の入り口に毎回入っていれば、なんかうまく進めないことに気づいてくる。そのタイミングは、ちょうどいつも決まった木のあたりからだったりする。

もっと手前の木

 習慣の疲れを知るには、いっそのこと頑張ってしまうという方法もあります。印が弱いままだとわからないので、強くしてしまうというやり方です。強くして、その印がどんな感じなのかを把握してから、だんだん弱くしていく。
 例えば、文章を書くときに、もうとにかく、時間設定とか考えないで、書こうと思えるだけ書いてみるとかです。腕が疲れてきたなーとかと思っても、もう身体の状態とかを無視して、頭でどんどん書いていく。そうしたら、気づいたときドッと疲れている。文章を見ると、もう支離滅裂。でも、これで、疲れた時の文章がどんなのか少しわかります。
 今のは、意図的に頑張るという話でしたが、おそらく、いつでも頑張ってしまうところはあると思います。毎日繰り返すたびに、自分にも聞こえない声で、「もうちょっとやれるかな」「もうちょっとやれるかな」と、声をかけている。無意識に、そういうことをやっている。
 だからこそ、疲れというのは、強い方からしかわからない。そこから、弱い方へ、細かい方へ、だんだんと早く気づけるようになっていきます。森で疲れ始めたのは、あの大きな木からでしたが、実は、もっと手前の木からそれは始まっていたのです。

森の日暮れ

 これまでは、一つの習慣の疲れについて話してきましたが、その習慣が、その日を暮らす時の疲れになる場合もあります。その日を充分にするのに、その習慣が必要かどうかの判断材料になってくる。
 僕は、今でこそ四つのことが習慣になっていますが、それが落ち着くまでには、整体の練習をしたり、ボイストレーニングをしたり、散歩をしたり、他にもたくさんのことを習慣にしようとしていました。
 ですが、例えばボイストレーニングなんかは、続けていると、続ける前にもういいやって思ってくる。それは、実際にボイストレーニングをした後に、これって、今日に意味あるのかって感じるようになったからです。具体的には、こうすることで、夜に寝れるようになるのか。頑張ってやっても、これから疲れるだけだろうと感じる。それは、その日に必要がないってことです。
 もう疲れるだけだろうという1日は、ダルイです。気持ちよく寝れません。気持ちよく寝ることが、1日を充分に暮すことです。だから、その1日の一部である習慣は、なんかダルくて寝る、みたいな効果を産んではいけない。森の探検は、日が暮れて、足元が大変になる前に、終えます。

道に生えている木

 その日に疲れる習慣と、疲れない習慣の区別がついてくれば、またその日が始まるときに、あ、この習慣はちょっと今日、余計かもなと、事前に予想を立てることができるようになります。
 別に、すぐそれを習慣から外す必要はありません。それも、自分がやりたいと思ったことだからですし、1ヶ月に1回ぐらいでいい繰り返しなのかもしれません。そうやって、習慣にも周期がある。ここでは、土日という周期で話を進めていますが。
 毎回やってくる土日に、この習慣を今日やっても、充分になるのに見込みがないと思うようになってきます。どうやら、充分になるメーターみたいなのがあって、一定のラインに達すれば充分だと認識できるのですが、この習慣をやっても、あまりそこまで増えないなと、そんな感覚があります。
 そうやって、休みの日の習慣の数を限定していきます。やることが多ければ充実はしますが、充分にはならない。やることが必要な分だけあるから、充分になります。森で、充分という道を見つけるのに、やたらめったらいろんな木をみなくていい。その道に生えていそうな木だけ、みつけていけばいいのです。

森の状態

 1日にできる習慣の数は、だいたい人によって決まっていきます。僕なら四つです。そして、定めるときに難しいのが、その3か、4か、5のどこあたりがいいのかという、ギリギリの加減に近づいていくときです。
 土日のTODOリストを始めた頃は、とにかく選んでいく習慣の数が多かった。6とか、7とかありました。でも、だんだんと疲れていきます。そこで、5、4、3と減らしていきました。
 しかし、3だとやっぱりまだ自分のエネルギーに余力がある。そう感じる日もあったり、4であれば、ちょうどいい感じがするが、何かまだ物足りない時もある。だから5でやってみるが、これもちょっと疲れる時があって...というふうに、ちょうどいい数を決めるには、その前後の幅で迷いが生まれていきます。
 もうちょっと頑張れると思う数と、もうちょっと疲れたと思う数の間を、行ったり来たりする。森で探検しているときには、絶えず帰りのことを考えてなくてはいけません。日が暮れてくる時間を、その森の様子から、そこでなく鳥の声から、湿気の感じから、察知しなくてはいけない。習慣の数を決める塩梅は、このように、森のような自分の状態を見極めることでもあります。

入り口前で飲み込む唾

 習慣の数を決める、微妙な塩梅の中には、新しくその習慣をする、という極と、もう新しい習慣はしない、という反対の極があることになります。その間を、両方からの引力に引っ張られながら、ちょうどいい真ん中を探っていく。
 習慣をするという極に向かう引力は、とっても肯定的で、ワクワクするようなものです。例えば、僕が新しく絵を描こうと思った時、すごく長く続いてくような幸せを覚えます。なぜなら、これからの土日がずっと、自分のしたいことになっていっていく。これまでブラックボックスだった自分の動きが、絵を描くという行為として輪郭付いていく。自分が、これから作られていくんだなという喜びです。
 ここには、多少の覚悟も伴っていくと思います。これからやっていくぞという意気込みです。ただ、そこまで気負いはしていません。どんなに時間が無くても、やらないといけないことではないからです。そうやって、決めかかっていない。TODOリストはそもそも、メモリストから生まれたもので、メモリストは、実際に次にできることは何かという、現実的な見方で、TODOを作り出しているからです。
 確実にできることが、TODOリストには並んでいる。ただ、そのTODO一つ一つには、習慣になっていくという時間の伸びみたいなのが含まれている。習慣を選ぶということは、その伸びを味わうことになるので、ちょっとした覚悟も出てくる。森の入り口に入る時、その入り口からは向こうまで続く道が見えている。少し、唾を飲み込みます。

別の入り口

 そうやって覚悟の伴う選ぶ習慣に対して、習慣を選ばないと思うことに対しては、勇気が必要になっていきます。ここで選ばないというのは、これまでやっていた習慣です。前にやっていた習慣だったが、ちょっとこれが疲れてきたと思った。そのときに、もう今回からはやらないと判断する時の場合です。
 これまでやってきた習慣をやらないというのは、とても喪失感があります。自分の作られてきた輪郭を、手放してしまうような感覚になってくる。でも、手放したいと思う自分もいるのです。そう思っているのは、身体の方。手放したくないと思っているのは、頭の方です。
 身体が手放したいと思っているのなら、1日を過ごす体調を知っているのは、身体の方ですから、やはり手放した方がいいのでしょう。ですが、頭はそんな自分の1日ですら、把握することはできない。だからこそ、その習慣をやらない、と選びにかかるときには、抵抗があるのです。
 しかし、抵抗の先には、きっと気持ちいいなだらかな坂が待っているような気もしてくる。だから、やってみるしかない。やらないと決めてかかるしかない。頭の自分が騙されたと思って、その日は我慢してみるのです。本当に必要な習慣なんだったら、次の機会の時に、やっぱり習慣にしようと思うはずです。馴染みのある行き慣れた森の道、この道の先はまだあるけれど、見えている木々の様子は、ずっとこれからも一緒なのです。それが、入り口に入るたびに十分に思い描けるのなら、もうそろそろ、別の入り口にいってみてもいい時期なのです。

飽きた道

 覚悟と勇気で、習慣の数を限定していく。大体はそうやって、うまくいくのですが、ある時、どうしようもなく、習慣の数が揺らぐ時があります。選ぶか、選ばないか、という判断ができない場合です。選ぶ対象として、その習慣が成り立たない時です。
 選ぼうとする習慣は、その日からできるようにTODOリストに書いてあるTODOです。対して、選ばないとする習慣は、これまでできていたTODOです。両者に共通するのは、できることがわかっているTODOであることです。
 一方、そもそも、できないと思ってしまうTODOというのが出てくる可能性がある。例えば、僕は散歩がずっと好きで、習慣にしていました。でもある時、その散歩に、飽きてしまいました。そこには、疲れもありました。ですが、選ばないというほどでもない。全然、その習慣を選んでもいい。けれども、選んでもなー、という、漠然とした気持ちが湧いてきたのです。これは、これまでできていたTODOの話ですが、これからできるTODOについても、あ、なんかこれはやらなくていいやと思うものって、結構あります。
 しなくていいやと、突然思うわけです。ここには、単純に、そのTODOをする自分に対しての飽きがある。だから、理由はわからないのです。いつも通っていた森の道に、急に飽きる。次は行こうとしていた道は、なんかどうでもよくなる。あれ、じゃあ自分は、その道をどうすればいいのか。飽きた習慣に対して、自分はどんな態度を取ればいいのでしょうか。

三日坊主という看板

 飽きてしまった習慣は、どうしようもありません。なぜ、その習慣を選ぼうと思わないのか、それは、頭で考えてもよくわからない。なぜなら、身体がもう放り出してしまったことだからです。
 僕が、散歩をしなくなった理由は、今でもよくわかっていません。ただ飽きたからとしか言えないところがあります。土日の朝になり、散歩をしようとは思う。だけど、ちょっと間があって、まあ、いいかと思うようになっていく。
 そうやって、飽きるのは自分ですから、自分が判断しているとも言えるのですが、ほとんど直感的にそう思う。自分はあまり考えていないのです。だから、飽きたのは自分のせいではない。
 誰かに、なぜ散歩をしないのか、途中でやめるのか、と言われたとします。それでも、別にやめてしまったとしか言えないのです。あるいは、そこに人がいなくても、『三日坊主な自分』という言葉が頭をもたげてくる。けれど、飽きた自分にとっては、そんなこと言われても、という気持ちになる。森の入り口にある『三日坊主』という看板は、ただの看板で、だからと言ってその道を行こうとは思わないのです。

放置される看板

 これまでの習慣にあっけらかんとする状態がくる。それはもしかしたら、次回にするかもしれない、ただそうやって、一時休憩にしているだけかもしれない。先ほどチラッと話したことでした。
 もちろん、散歩をしない日があって、次の土日には、また散歩を始めるのかもしれない。そういう可能性は十分にあります。けれど、それが実際にそうかどうかは、その日になってみないとわからない。つまり、次の土日にするかもしれないということを考えているのは、散歩をしないその日です。
 なぜそんな訳を考えるかというと、きっとそこには、これまで続けてきた習慣を、そんなに簡単には手放さないだろうと思っている自分がいる。あんだけ、散歩を大事にしていたのだから、さすがに、すぐ放り投げることはしないだろうと思っている。
 ですが、僕はその散歩を、やめたっきり、ほとんどやらなくなりました。またすぐ再開するだろうと思っていた自分は、その時の思い込みだったのです。習慣に飽きるというのは、これまでとこれからの一部から、離れていってしまうことなのです。森の『三日坊主』という看板は、もう外されることなく、ただ放置されるだけで、そこから続く道も、もうほとんど通ることがなくなっていく。

形の変わる森

 飽きてしまった習慣は、本当にどうこうもないのです。仕方がない。その習慣を取り戻そうとしても、それは結局自分のせいではないのだから、すごく知らない人の言うことを聞いてる感じになってしんどい。これからの習慣の候補から外れても、それは所詮自分の思い込みであるのだから、前の気分を引きずってダルくなる。
 なので、もうそういう習慣には手がつけられません。手がつけられないのは、自分のせいではないし、逆らえない気分というものがあるのです。諦めることです。
 習慣は、それを続けることが目的ではありません。確かに、続いていくことが、習慣のもっともはっきりした特徴です。毎回繰り返す。これが習慣です。しかし、習慣を繰り返していくという習慣は、ありません。習慣は、何かを続けていくものだからです。繰り返すことを繰り返そうというのは、何も続けていないのと同じです。
 続けることができるのは、その日のTODOリストに書かれてあることです。毎回、そのリストにあるものが、習慣の候補です。前にしていたこと、これからすることは、そのリストからいつなくなってもおかしくない。でも、それは日々を過ごす中で、自然にそうなっていったものなのです。リストという森は、絶えず形を変えます。道はなくなり、道はまた新しく、できていくのです。

森の方角

 では、本当にその習慣は、どこかに放り出されてしまったのでしょうか。習慣が飽きた理由はわからないと言いましたが、実は、習慣が何かを引き継いだという言い方なら、できるのです。
 僕は散歩に飽きました。なぜ散歩をしなくなったのかは分かりません。けれどその代わり、文章をパソコンで書き始めました。もしかしたら、散歩でやっていたことと、書くことでやっていたことは、似ていることかもしれません。僕が散歩中にやっていたことは、考えることです。歩いていると、考えが浮かんでくるのです。また、今、文章を書いている時にやっているのも、考えることです。書いていれば、考えを次々に出していくことができる。
 つまり、僕は散歩から書くことに変わったのですが、それは、考えることが続いているためなのです。なぜ、散歩から書くことになったのか、そのタイミングの理由は分かりません。けれど、考えることを実はずっとしていたのです。
 この考えることは、習慣ではありません。習慣には、何かを続けているというはっきりとした意識がある。けれど、この考えることは、知らない間に自分が続けていることなのです。習慣ではなく、自分の性のようなものでしょう。森には、いろんな道がある一方で、自分がよく向かう方角というものもあるです。

森からの風

 性は、習慣によって続けられていることです。習慣がしていることは、実は、この性に継続的に触れているということなのです。習慣は、その流れに絶えず接する入り方の違いでしかありません。そしてその入り方は、変化していく。習慣は変わっていきます。
 習慣は変わりますが、性自体は、変わりません。変わっているかどうかも分かりません。例えば、考えることは、僕の性ですが、考えることは、考えることでしかない。どのように考えるかは、変わっていますが、それは、歩きながら考えるとか、書きながら考えるとかの話になってきますので、習慣のレベルになっています。
 変わらない性にくっつくように、習慣はある。性は、そのくっついた習慣を勝手に切り離して、また勝手にくっつけます。ここに、習慣が変わるというわけです。なので、習慣と習慣の間には、性がみえるのであって、習慣がなくなれば、だいたい、その間の性が、次の習慣を呼び寄せます。
 性は、TODOリストにはみえません。それは、毎回、そのTODOリストを過ごす日々の中で、なんとなく、この習慣が好きだなと、そんな好みとして、スーッと感じられます。森のある方角がどうしても気になる。どうにもそこから、気持ちいい風が、流れてきているように思うから。

森の出入りにあるベット

 習慣をすることは、性の方に向かうということです。それに、いくつもの習慣があるということは、性にも、いくつかあるということです。そういう習慣で構成される、その日暮らしは、性をいくつも巡るということです。
 僕は、休みの日に四つの習慣があります。一つは、文章を書くことで、これは考える性に向かっている。二つ目は、本を読むことで、これは、想像力という性に向かっている。三つ目は、音楽を弾くことで、これは、気持ち良さという性に向かっている。四つ目は、絵を描くことで、これは、記憶力という性に向かっている。
 これらの四つの習慣をこなしていくことで、僕は、休みの日を過ごす。考えたり、想像したり、気持ち良くなったり、思い出したりする。そうやって、それぞれの性にちょっとずつ触れていくことが、その日の満足につながります。おかげで、気持ちよく寝ることができるのです。
 気持ちよく寝ることができた時に、その日がうまく過ごせたと言えます。そうして、そんな日を毎回、過ごしていけることが、本書の理想とする目標です。森を歩くたびに、いろんな風にあたる、そうして、森に入ったところにまた出てこれる。そこには、ベットがあります。


ベットにカレンダー

 毎回、習慣という小さな束で、性をめぐっていく。その過ごしを、広い意味の習慣と呼んでいます。この大きな習慣は、自分が、毎回、その日を過ごしていけるという、自信そのものです。
 寝る前の最後に、カレンダーの日付に丸をしていけること。これが、大きな習慣を味わっている感じです。その丸の中には、ちゃんと、小さな習慣が詰まっている。習慣を詰めすぎると、丸をしようとしても、日付の枠から溢れ出して、丸ができなくなります。
 日付の枠が収まるように、小さいな習慣はその数を揃えていきます。そうすれば、カレンダーに丸することもできるようになる。こうしてだんだん、丸が増えていきます。今日はできた、今日もできた、次もできるだろうと、信頼が分厚くなっていく。
 森の付近にあるベットには、そんなふうにカレンダーが置いてあるのです。寝るのが楽しみになっていきます。だから、その日も、どこかで欲張らずに済みます。ちょうどよくこなしていかなければ、寝るのが遅くなってしまうからです。

森としての自分

 カレンダーには、枠が並んでいます。その日に丸をつけようとすると、他の枠がどんどん続いていることも意識される。そこから、改めて丸をつける日を眺めてみる。そうすると、今日過ごしたこの日は、この日以外あり得なかった。
 毎回、過ごせることというのは、結構すごいことなのです。朝起きてから、あの迷いそうな森へ出かけ、日暮までにちゃんと帰って来れる。そして、また、あの森へ行く準備のために、ちゃんと寝れる。この淡々ぶりが、すごいのです。
 誰に言われるともなく、過ごすのです。何のためにそうしているかは、誰にも分かりません。自分でもはっきりとはわからない。けれど、確かに、またあの森に出かけることができる、その自信が、自分そのものであるのです。
 起きることが、森に出かけること。森から帰ることが、寝ることになる。寝て起きることは、森に出入りすること。森が目覚めて、森が静かになることが、自分になっていく。いつかしか森は、自分と同じになっていく。