1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】冒険の神話(10)

男は野菜売りの人から、おまけももらっていた。売れ残ったキャベツである。それも手に余るぐらいのものである。男はバックに入りきらなかったので、仕方なくもう片方の手で持つことにした。だから今、男の両手にはあの本と、キャベツが乗っかっているのである。

男はそれで用事が済んだようで、建物に戻った。そして、オルガンの奥を突き当たって右の方に扉があり、リビングのような部屋に入る。男はそこで、ようやく本をテーブルに置き、キャベツは抱えたままで、バックの整理をしていた。

材料を全て出した後、男は台所に行き、ものを並べ、包丁を取り出して切った。途中で鍋を取り出し、水を注いで火をつけた。忘れていたようだ。水が沸騰したら、今度は切った材料を入れて、カレーのルーのようなものを上の棚から取り出して入れる。そして男は、エプロンをつけた。忘れていたようだ。

そして男はもう一つ、僕にとっては甚だ不思議でならないのだけれども、大事な忘れ事をしていた。男はこれまで、今やった過程を全て、片手でこなしていたのである。つまり、もう片方の手にはずっとキャベツが乗っているのである。男は完全に、キャベツというか、片方の手のことを忘れていたのである。

カレーのルーが溶け出すまでの時間、男は近くのテーブルに座り一息ついた。そして、キャベツをめくっては、台所の窓ガラスを見ながら食べていた。

どうやら僕の見立ては間違っていたらしい。男は、このキャベツを食べようとしていたのだった。だから、大事にとっておいたのである。

男は次々にめくっては、それを食べていった。おいしくはなさそうだった。けれど、もらったものだから仕方ないと、とうとう最後の芯が出てくるまで食べ切ってしまった。

芯は捨てるのだろうと僕は思った。しかし、それもまた予想を裏切られたのである。男はそれを台所の窓ガラスの付近に立てかけたのである。ちょっとバランスが悪ければ、そこの方を齧って、うまく立つように工夫した。

その窓ガラスの付近には、いろいろな野菜の芯が並んでいる。そしてそれぞれ、ただ枯れていくだけのものなのである。それらをなぜ並べているのか、僕には理解できない。その秘密は、あの男だけが知っている以外ありえない。

カレーが全体に馴染んで、煮込み終わったようである。いよいよ夕食の準備だ。男はまず、使わない道具を洗ってしまい、その後に必要な皿を出した。コップも揃え、ああそうだと、ナフキンをそれらの下に引き直した。男はいつも何かを忘れてしまう。

そして、カレーのためのご飯を炊くのも忘れていたのである。

男は仕方なく、皿にカレーだけを注ぎ、スプーンで口に運んだ。味はなかなかよかったらしいので、まあ納得した。

全て平らげると、残った鍋にはフタをして、食器も全て片付ける。

そして、もう夜になった窓を頃合いに、蓄音機をかけ、ベットに入り込んだ。

翌朝、男は何の前触れもなく起きる。そこからは非常に規則正しい。昨日のような忘れっぽさは微塵も感じさせなかった。

用を足し、歯磨きとお風呂に入り、ちゃんと着替えた後に、ステンドグラスの部屋に入って、掃除をする。そこにはベンチが何個もあり、一人では大変だ。それでも男は難なくこなした。入り口に一番近い、右端のベンチを掃除している時、忘れ物があった。

本だった。それは男や普段町の人が持っているような本とは違った。背表紙は黒ではなく、赤色だったのである。

僕からするに、その赤色の本には生命が感じられた。その本を読む誰もが、きっと勇気付けられるに違いない。赤い気持ちが芽生える類のものである。

しかし男は、すぐそれを読もうとはしなかった。いつものように、町の人々が集う時間になったからである。

男はいつものように済ませ、最後に、その忘れ物が誰のものか聞こうとした。が、男は少し考え、咳き込んでそれを誤魔化した。何もなかった、忘れてくれと町の人々に言い、本日も仕事を終える。

男は、その本を読むつもりだったのである。今日の夜は昨日のカレーがある。ご飯はしっかり用意したので、大丈夫だ。そうして男はカレーを食べた後、その本を開いた。その本は、恋愛小説だった。男が女に恋をする。けれど、女は男をフリ続ける。しかし男はそれでも諦めない。それで女が出た行動が。というところまでで、お客さんが来た。

この男の仕事は、普段大衆に説き聞かせることだけでなく、個別に人生相談もしているらしい。入口入ってすぐ左の突き当たりに、小さな箱のようなスペースがあり、片方にお客が、もう片方にその男が入る。男が入るのは、いつも決まって壁側の方である。

お客は女であった。女は最初の十秒、黙っており、何も言い出そうとしなかった。男の方が、何も話さなくても構いませんよと付け加えた。すると女は、たちまち泣き出して、事の顛末を話し始めた。

ある男性に恋をしたのである。しかし、恋をしてしまうのは、あの黒い本に書かれてあることからは、どうしても悪だと思えてしまう。けれど、男性はとっても素敵だし、自分の身体を曝け出してしまいたいと思うほどなのであった。けれど、それはやはり悪であって、そうわかっていながらも、彼のことを思い続けてしまう私は、本当に悪なのかもしれないと、そう捲し立てた。

男はしばらく考えて、否定も肯定もしなかった。黒い本の該当箇所を読み上げて、そこから解釈できることは、あなたの発言ばかりではないことを述べた。つまり、あなたは悪だというが、そうじゃない可能性もあるはずです。だから、この本を読み続けなさい。そして本当にその意味がわかった時、その愛を、その男に伝えると良いでしょうと、心のこもった調子で述べた。しかし、冷たい気持ちで。

女は、先ほどまで熱い気持ちだったのが冷めていき、それでも納得したような顔をしていた。そして、その箱から出てきてお礼を言い、その建物を後にした。

男の顔は、むしゃくしゃしていた。ガチガチガチと、歯軋りを立て始めていた。そして、何かを思い出したように、リビングテーブルまで駆け、あの本の続きをめくり始めた。男の気持ちには、いよいよ赤い炎が灯り始めたのだ。

その小説の女が取った行動は、男に次のことを確認することだった。私のことを愛しているのはなぜなのか。男はこう答えた。それは、君のことが好きだからだよ。それを聞いた女は、泣き出す。泣き崩れる。そして、腰ポケットに仕込んでいたナイフで、自分の首を掻っ切るのである。男の服は、赤い色で染め上げられてしまい、それ以来、男は涙を流せば、それはいつも赤色になった。そして、この背表紙が赤いのは、その涙をよく吸わせたからなのであると、そういう結末で、この小説は閉じる。

読み終えた男は、うな垂れた。首をカコンと曲げ、自分の足元をじっとみていた。次第に吐き気が込み上げてきて、しばらく台所で吐いていた。そして、先ほど食べたカレーを全て出し切ったあと、男は倉庫部屋の方に足を運んだ。

男の気持ちには、炎が燃え上がりを見せていた。僕は、弓矢を構える。

倉庫部屋に入って男が探したのは、ガソリンである。赤色のタンクに入ったガソリン。男はそれを片手で持つ。本を持った手で、キャベツを持った手で。

男はそのタンクを、ステンドグラスの部屋に垂らしていく。ベンチ一つ一つに、端から端まで、抜けがないことを確認する。残ったガソリンは、ステンドグラスに勢いよくかけた。皆が拝んでいた母親の顔に、べちょりと灰色の液体が染み付いた。それでも母親は笑っていた。膝下に子どもを抱えて。その子どもの笑った口に、液体が入ろうとしていても。

男は胸ポケットからライターを取り出す。しかし、そこでピタッと立ち止まった。勇気だ。勇気が出ないのである。男はあと少しのところで、火をつけられないのである。

男の頭上には、母親がいる。母親が、あの冷たい手で、男の肩をそっと抱き寄せている。

真夜中。誰もが寝静まっている。男の頭からは汗が、背中はぐっしょり濡れていた。ベンチに巻かれたガソリンが垂れ、ピチャピチャピチャと、音を立てる。

犬が吠える。犬は鼻が効く。この建物から漏れるガソリンの匂いに気がついたのであろう。扉を叩く音がする。町民もやってきたらしい。ダメだ。できない。俺にはできない。男は頭をガンガン叩く。教台に打ち付ける。何度も何度も、血が出るまで。そう、今血が出たのである。額から、男の口に血が入った。

僕はこの時を待っていた。弓を大きく弦いっぱいに弾いて、息を詰め、心臓に届く糸が見えた。放つ。刺さる。

男は火を投げた。炎だ。赤い。赤い。熱い。男の気持ちは、見事な赤色だった。これで、この町も寒くなくなる。暖かい夜に包まれる。

僕は見事、仕事を成し遂げたのである。