特集「読み渡る、陥穽」(その日新聞、第四号)
自分の好みだけを詰め込んだ新聞、第四号です。
さまざまな記事の中から、短編記事を抜粋です。
短編 トンネル
六歳の時、僕は何をしていたんだろうか。きっと、砂遊びばかりをしていたに違いない。
親が隣でヒソヒソと話している。あの子ったらほんとにもう。いやいや、うちの子だってそうなのよ。きっと僕の悪口を言っている、僕たちの悪口を言っている。
いつも泣きそうになると、お母さんはキャラメルをくれた。はい。これ舐めな。舐めていいけど、噛んじゃだめだよ。
僕には弟がいた。実際にはいない。空想だ。想像だ。
弟は雨が降る中にいた。外出できないで、窓を見ている時。庭の、芝が蒸気を発していた空間。
小学校の休み時間。友だちは僕を遊びに誘ってくれたが、いつも弟と遊ぶと言って断っていた。
弟が好きなのは、雲梯。ひょいひょいと進んでいく。僕なんか、一本渡れたらいい方なのに。
ある時、弟が渡り損ねた。手をかけようと思った次の一本が遠く、手が落ちてしまう。その重力で、もう片方の手も外れてしまう。地面に落ちた。地面が落ちたのかと思った。それくらい、素早かった。
僕は、負けたんだねって言った。弟は、死んだような姿勢で、うつ伏せになりながら頷いた。影なんてあるはずがないのに、身体から滲んでいた。
元から僕は食欲がなく、ずっと痩せていた。子どもは食欲旺盛というのが世の常識らしいが、よく食べるみんなをびっくりする顔で見つめていた。給食はいつも残すし、パンが特に食べ切らなかった。いくらなんでも、あの一本はデカすぎるだろう。みんなもそのことには気づいているみたいで、無理やり口に詰め込んでいた。仕上げは牛乳で流し込む。だから、牛乳も飲めるようになっていく。
小学校は、幼稚園も併設されていて、幼稚園生がいなければ、そこの遊具で遊べるようになっていた。中でもお気に入りは、トンネル。入って出るまで、十秒ぐらい必要なトンネルで、中はいつも湿っていた。たまになぜか強烈な匂いのする時があるのだけど、それ以外は気持ちのいい匂い。
昼休み、今日はトンネルに行こうと、弟を誘った。機嫌が悪そうだった。雲梯に行こうというと、喜ぶのに。
大人になったのかな、僕は思った。トンネルに行こうとする方は子どもで、雲梯に行こうとするのは大人なのか。だって、トンネルで遊ぶのにはハイハイするしかない。ハイハイって、赤ちゃんの進み方じゃないか。僕は、赤ちゃんに戻りたいのだろうか。
弟は誘いに乗ってくれなかった。いいよ、僕は僕で遊ぶから。一人でトンネルに向かった。君はどんな顔をしていたのか。きっと寂しい顔だった。僕はわかっていたけれど、そんなこと気にしないようにして、トンネルを見つけた。トンネルはいつもより真っ暗で、ちょっと不気味だったのだけど、一人で遊ぶと言った以上、僕はこれから、ハイハイするのである。
覗いて、右手を前に出し、左手も前に出す。身体がくの字になり、背中がヒヤリとする。頭が上に当たぬように、するすると足をしまい込む。入ったのを確認し、ゆっくり、後ろから風が吹くタイミングで進んでいく。
そしたらすぐ暗くなり、入り口の穴を隠してしまった。
僕は焦った。本当の真っ暗だ。音が聞こえない真っ暗だ。僕は、風があったから前に進めたのであって、それは入り口があったからだった。入り口がないとなると、僕はもう、進むことができない。
しゃがみ尽くした。腕を曲げて、頭を抱えて、お尻は踵にくっつける。とにかく、石ころみたいになってしまないと。
どれくらい時間が経ったろうか。相変わらず外は無音。無音だ。
無音が、無、無、無。だから、むっと言ってみた。
するとどうだ、聞こえた。自分の声は聞こえた。む、だけは、耳に入ってきた。
安心した。僕は、僕を助けることができた。よし。進もう。
トンネルがあとどれくらい続くのかはわからない。けれど、きっと終わりがある。これまで何度も渡ってきたトンネルだから。
手足を動かす。音は聞こえない。代わりに、む、む、む。歩いていく。
頭はぶつからない。頭は、ぶつからない。天井が高くなっていることに気づいた。空気の隙間、風の隙間がある。
なんだ、広くなっているじゃないか。僕は、肩幅より狭くしていた腕を、外に出す。やはり、これもぶつからない。
よし。
今度は腰を持ち上げた。膝をお腹の方に入れ、重心をお尻に傾けた。
よし、よし。
む、む、と言って、少しずつ、身体を伸ばした。垂直に、斜めに。
立った。立てた。
歩いた。相変わらず音は聞こえないが、むを言う必要がなくなった。暗闇を恐れなくなった。
暗闇が怖かったのは、そこに何もないと思っていたから。
それは勘違いだった。
暗闇は、ありすぎるのだった。僕が知っていることが、そこにありすぎるぐらいあるのだった。
自分は、知ることを恐れていたのだった。たくさん知ったら、たくさん知った後の頭がどうなってしまうかわからなかったと、頭はそう言う。
ふぅーん。頷いた。
足にぶつかる。
手で触る。人の身体みたいだった。
お腹辺り、ベタっとした。なんだ、ぬめっとして、暖かい。
手を浮かす。蒸気を発し溶けていく。
僕の手が、骨みたいになっていく気がする。
急いで駆け出した。頭を踏ん付けたかも知れない。
明かりが見えた。出口だ、出口。
僕は、壁に手をつきあて擦り、ついたものを拭った。
埃が舞った。風が通った。
外に立っていたのは、本当の弟だ。
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