1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

No.3 ネコに足をつけてみる

ネコには足がない

ネコには4本の足が生えているようにみえるが、僕には手にみえる。4本の手。そんな四足歩行ならぬ四手歩行に憧れるのは僕だけだろうか。

二足歩行になった人間は、四足歩行の猿から進化してきたのだが、なんたって世間は歩きづらい。

でも機械の足はまだ動いているので、なんとかコンクリートの道を歩く。

もし、歩く方向に裂け目がなければの話だが。

機械の足がコンクリートの裂け目に入ると、もうそこから出れないだろう。

機械は、前に歩くしかできないからだ。

いくら足を動かしたところで、抜け出せない。動かせば動かすほど、歯車が軋んで余計痛くなる。

最初は太ももの辺りが痛くなる。次に足首の感覚がずれ始め、一瞬足が頑丈になったかと思うと、膝小僧の関節あたりからガクッと折れ曲がるだろう。

 

直立二足歩行

四足歩行から直立二足歩行になった理由を考えてみよう。

それは、行動範囲を拡げるためである。

副産物として立ち止まることも覚えた。

歩き続けることができないからである。

体力というものも知った。

ここまではいける、ここからはいけないという境界を得た。

直立は、頭でこの境界を絶えず見定めることである。そこから、自分の体力を見限る。

ここに、距離の知覚が誕生する。

直立二足歩行とは結局、距離を把握するためである。

距離こそ、足が動く最低限であり、次に動くだろう境界線である。

 

歩きづらいこと

以上のように、足が距離を作り、距離が足を作るのであるが、足も休もうとする。

歩いていると足がだるくなってくる、あの感覚のことである。

まだ歩けると思う一方、もう歩きたくないと感じる、ムズムズする。

ムズムズは捉えにくい。そのもどかしさから余計にムズムズしてくる。

ムズムズはムズムズを吸収し、増幅し、足を覆って、足をのっとってしまう。

その不快感は、足全体が痺れているのに歩かされている感覚である。

地面を踏むたび、ビリビリと、見えない電気透明板の上を歩く。

いつしか、自分が歩くところに電気が走るようになる。歩いているのに走っている。

 

走ってしまう

走ることの出発点は、足が距離を覚え、戻りたい気持ちと進みたい気持ちが相反することから起きてくる。

走ることは、その成立要件からして制御ができないのである。

勝手にモードチェンジしてしまう。

先ほどまで歩いていた足は、もう別の姿になっている。

さて、どのような。。。

 

走る足

走っている足の様子は、2本の姿をとどめていない。

「2本でない足。」

足は誰しも2本であると思っている。

しかしそれは本当か。

仮に足をその場でジタバタさせてみる。

片足は地面についたとき、もう片足は地面から離れている。もう一度。もう片足は地面から離れているが、もう片足は地面についている。

繰り返していくうちに、密かに、両足が浮きたくなるような気持ちが湧いてくる。

地面についているのが足である。ついていないのは足ではない。

足は地面につく瞬間に足になる。ついていない間は足ではない。それは言い方を変えれば、走る足である。反対に、地面につく瞬間は、歩く足である。

走る足は、実際には浮いているから、全く距離が進まない。歩くことで地面を踏み、距離が進む。だから、実際には足をすごく動かしているように見えて、ゆっくりにしか進んでいない。

進度は、自分の目で確認できないぐらいゆっくりである。ゆえに、周りの風景の遷移をみることでしか、確認ができない。

「歩いたほうが早いんじゃない?」

確かにそうだ。しかし、早いとはどういうことなのか。

ちょうど似たような速度でネコがやってきたので、尋ねた。

ネコによれば、早さとは、決して捉えられないものであるという。

僕には疑問が湧く。例えば、人より電車の方が早いじゃないか。

ネコにとっては、早いほどつまづくとのこと。ちゃんと走れなくなるそうだ。

走ることは、ネコにも厄介らしい。

 

つまづいてから走り出す

ネコは続けてこういった。実は誰でも走れるのだと。

誰もにその瞬間があるし、そのコツもある。

走れば、社会の見方が変わることも教えてくれた。

走るコツを知るのに、時間はかからない。

ただジタバタしてみて、楽しくなる瞬間を覚えておけばいい。

むろん、近所迷惑にならない程度に。

そうやって頭で復習している間に、ネコはいつの間にかいなくなっていた。あんなに足を動かしていたのに、ついぞ、音もしなかった。

厄介な走り。

「ネコの歩き方」シリーズは、下記の欄からご覧いただけます。

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