No.3 つついた世界を散歩して
人間になってみないと、わからないことはある。ぷかっと浮かんだ世界を上から眺めていただけでは知る由もなかったことだろう。いつまでも自分気取りではいけない。いつでも相手と同じ視点に立って、相手がどう動くかをみなくてはいけない。それがわかるまで、観察をやめない。
大きな建物内のベンチに座って、そんなことを考えながら、隣で寝ているベンチの人間をみる。
次に、目の前を左から右へ歩いていく人間を見る。
この二種類の人間というカタチが気になり、今にも何をしているか聞き出したい。
しかし、寝ている人間にもし何か聞いても、寝ぼけて何も覚えてないだろうし、歩いている人間に限っては、睨まれて無言で通り過ぎるだけだろう。
ならば、黙って観察する方が得策だ。相手のその行為がよく現れる仕草を、一瞬だが見える何かを、みるのがいい。
まず寝ている人をみる。
この人は、腕で頭を支えて、片手は背中からズボンに突っ込んでいる。身なりはバラっとしている印象で、紺色のズボンは裾が黒ずんで破けているところがある。上は灰色で、作業着のようなものを着ている。胸元から見える黒色のTシャツには、何か文字がプリントされていて、しわくちゃになっている。
あまりいいとは言えない身なりだが、その寝姿は菩薩の涅槃のような格好で、横道に顔を向けて寝こけている。頭に帽子を被っているため、顔の様子はしっかり確認できないが、静かに、コクリコクリと寝ている。まるで、誰かに相槌を打っているかのようで、もしかしたら、夢の中で、誰かの話を聞いてあげているのかもしれない。
対して、歩いている人はどうだろうか。
第一に、その数が圧倒的多数である。寝ている人は隣に1人しかいないが、歩いている人はそれ以外である。足が何本もある。みな、洗濯してアイロンをかけた下を履いている。汚れた空気を跳ね除けるようにテカリのある表面だ。腰にはベルトを巻いており、上着はシュッとして、腕時計をみるためのちょうどいい袖の長さになっている。中に来ているシャツは首元の第一ボタンが外れており、それでも息苦しい様子だった。手には小さい機械をもっており、それを手元でみながら歩いている。
顔は無表情で、不思議と寝ぼけているようにもみえる。その顎の下にある外されている第一ボタンは、もしかしたら締め忘れているのかもしれない。
歩く人も寝る人も、寝ぼけている感じがあるのは共通している。寝る人は、これから寝ぼけるだろうぐらいに安らかにしており、歩く人は、いままさに寝ぼけている状態でそそくさしている。
逆に違うところといえば、寝ている人は誰かの話を聞いており、歩く人は首元のボタンを締め忘れていることである。
寝ている人から歩く人をみれば、歩く人は誰の話も聞かない人であり、歩く人から寝ている人をみれば、寝ている人は締めるボタンすらない人である。
この二種類の人間は、このようにお互いの視点があるために、決して同情できないし、理解もできない。話してみても、永遠に交差し続けるだけだろう。
その交差を現すように、ベンチと横道の間には溝があった。
溝には、黒い液体が流れており、しかし、どちらの方向から流れているのかわからないほど穏やかで、緊張を保っている。どこまで続くのか、目で追う。その先には外の光が入り込んでいる。反射する、点線で形どられた輪郭。そこには人が立っている。
その影は、一生懸命な動きをしている。その動作がはっきりしなくても、その気持ちだけは伝わってくる。効率のいいものではなく、無駄が多くなってしまっているような、いっぱいになった動きだ。
こうしていてはと、ベンチに座ってもいられず、早歩きでその方へ向かう。輪郭に近づくにつれ、何をしているかわかってくる。どうやら、この建物を通る人に道案内をしているようだった。
その人は、どこを見ることもない目で、ただ腕を左から右へ移している。それを繰り返している。何もしゃべらず、口はずっと開いたままである。しかし、ボーッとしているのではなく、腰でしっかり直立していて、そこから動く気配はない。ひたすらに、人を案内している。
前を歩く人は、何もみていないように通り過ぎていく。彼は別に気にしていない様子だった。無関心の歩く人と、気にしない案内人は、調和の取れた組み合わせだった。
案内人は、ベンチで寝ていた人とはまた違った。あの安らかさではなく、静かな必死さがあった。
そんなにしてまで、誰を案内しているのか。
その運動する腕は、人に向いていない。むしろ、空気を押しやっている。外から建物の中へ、空気を入れている。
彼は、人ではなく、風を案内していた。歩く人は、その風に背中を押されて、建物に入っていった。
(続く)
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