1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

No.4 つついた世界を散歩して

                                 

上からこの世界を眺めているだけでは、やがてつまらなくなり、この世界を消してしまうかもしれなかった。世界を歩き始めた後でそう思う。

歩いてみなくてはわからない。

歩くと景色が変わる。止まっていると、景色は変わらない。そして、観察することはその両方と同じでない。足は止まっている。歩いてもいない。むしろ観察することはその両方を含むやり方だ。つまり、目の前の止まった景色を、目に歩かせるのである。

そうやって、世界を散歩する。

 

今観察しているのは、建物に人を入れていく案内人である。実際、彼は誰からもみられていないし、彼も人を相手にしているわけではない。彼と人の間には風があって、腕を動かすことで、風が人を運ぶようにしている。彼はなぜせっせと風を運んでいるのか、その理由を、彼の空いた口に探そうとしていた。

彼の口には、歯がなかった。周りの唇は、乾燥でたくさんの亀裂が入っており、紫色をしている。その色は、出血した血が唇にまとわりついて、染み付いているものだった。その色の奥には、まだ赤い部分があって、きっと口を動かせば、また傷口が開きそうな状態だった。だから口をずっと開けっぱなしにしているのだろう。もし口を閉じたなら、くっついて空かなくなり、一文字になってしまう。

彼の目はどうだろうか。歩く人を見ている様子はない。しかしどこか、定点におさまらないようゆっくり動いている。じっくり何かを探している、そう思ったが、少し違う。何かを絶えず見つけているような動かし方だった。右の方をみれば、少しずれて左へ。左の方にいくと思えば、今度は下の方へ、ずらしていく。そしてどうやら、腕の動かし方も一緒に変わっていくようだった。みた方向へ腕を伸ばし、その手は自分の身体の方へ運ばれていく。彼は、風の方向を目で捉え、空いた口に風を運んでいた。風は歩いてきた人の蒸気を含み、口は乾燥せずに済む。

 

風は、いろいろな方向から、彼の口に入っていく。彼も、一生懸命に運んでこようとする。しかしそれでも、捉え損ねる風がある。建物の入り口で、ヒューっと音が鳴る。

彼の口が完全に潤うのは、抜かりなく風を集めた時だが、それは叶わない。でも諦めきれないから、一生懸命になっているのだ。目では、その過ぎてしまう風がみえている。彼の視点に立てば、通り過ぎてしまうのは人ではなく、その唯一の風だった。

 

風はどこへ飛んでいくのか。建物の中には入っていかない。入る直前でするりと交わして、彼の頭上をいき、後ろの方へ流れる。

その先をみると、建物と建物の間に小さな道がある。湿った道であることは、離れていてもわかる。ただどんよりとした暗さはなく、日の光がちゃんと行き届いている、そんな地面が続く。

その道は、近づいていくたびに、光の鮮明さを増していく。壁には落書きがあり、建物の窓ガラスにはヒビが入り、ゴミ袋はカラスが漁る。どれも一見汚いが、風が吹くたび、道全体が輝いた。風で舞うチリが、光によって照らされる。

 

その光は小さな屋根のようなところに積もっていく。屋台のようだ。提灯がぶら下がり、暖簾がかかり、何を作っているのか窺い知れない。

その暖簾へ、風が次々と入っていく。集まっていく。きっと奥では、渦を巻いているに違いない。

だんだんと人の声が聞こえてくる。何人かが座って、談笑しているようだった。

屋台の側まできて、中を覗く。すると驚いた。いるのはお客さんだけである。そこには、店主のような存在がいなかった。どこかに出かけているのではない。最初からいない、そんな屋台だった。

 

この屋台には、鍋だけがあった。ぐつぐつ何かを煮ている。しかし湯気が立っていない。

隣のお客さんの1人が、箸でその鍋をつつく。そのまま口に入れるが、熱い素振りすらみせない。よほど、熱さに強いのだろうと思った。しかし、その隣の者も同じだった。

この鍋は、全く熱くないのだ。むしろ、冷かかな香りすらしてくる。この鍋は、煮えているにもかかわらず、冷えている。

この不思議な食べ物を、食さないわけにはいかない。食べてみる。

箸はもう2人の分でなくなっていたため、手で掴む。

手を入れた鍋は、やはり冷たかった。そのまま手のひらにのったものを口に頬張る。具に染み込んだ汁が口内で溢れて、口から漏れそうになった。

沁みてきた味。この世界にきてから、どこかで食べたことのある味だった。

この味は、冷たく煮るからこそ出てくるのものだった。

 

鍋から煮る音がする。グツグツ鳴っている。同時に、隣の者の話し声も聞こえてくる。ブツブツ言っている。

鍋に目を当てると、中はゆっくり左回りに回転して、真ん中が凹んでいる。その渦をみているうちに、鍋のグツグツと人のブツブツが混じり合い、渦の音になっていった。

お客さんの顔をふいにみる。

その顔には、目もなく鼻もなく口もなく、耳もなかった。あるのは、鍋と同じような渦だけだった。

 

(続く)

 

 

「つついた世界を散歩して」シリーズは、下記からご覧いただけます。

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