1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【長編】冒険の神話(1)

立ち上がり、ムクっと起きた。外は真っ暗で、蒸気だけが満ちている。

起き上がるだけで、身体が軋む。ずっと寝ていたようだ。それも、死後硬直のように。

目覚めた時、ハッと、息を大きく吸った。その衝撃で、横隔膜が驚いたのか、ずっとしゃっくりが止まらない。

しゃっくりがひどく苦しい。ひゃっく。ひゃっく。森に響く、吸い上げ音。

どうやら森にいるようだった。しかし、そう広くない森。どれも似たような木、というわけではなく、それぞれバラバラの、違いのつけることのできる木。一本一本に名づけることのできる木々。

だから方角を間違うことはない。ここから、あちらに向かうにはどうしたらいいのか。

とりあえず、今はこのしゃっくりをとめなければならない。歩こうにも歩けない。しゃっくりは、私の歩みを止めてしまう。

時間は薄暗かった。動物たちは寝ているようで、実は茂みに隠れ、自分の方をみているかもしれなかった。

ざわざわ、さわ、っと音がする。風かもしれない。けれど、その風は生々しく、動物のように感じられた。

今の風は、鹿に違いない。いいや、鹿じゃなくたっていい。鹿のような風であれば、僕はまだ安心していられる。

姿勢は尻を地面について、あぐらを描いている状態。ひゃっく、ひゃっく、その度に飛び跳ねている状況。

もしかしたらしゃっくりが、動物としての僕の鳴き声かもしれなかった。人間である僕は、動物である。しかし人間はめったに鳴き声をみせない。それは泣く時に、かろうじて垣間みえるぐらいだ。けれどどうにか今、僕は素の鳴き声を出せているように思える。おそろしく低い、どんな泣き声よりも愚かな声で、僕はまた身体を弾ませる。

しかし、ずっと横隔膜が振動するのもしんどい。体内が空っぽだから、振動ではち切れてしまいそうである。

とにかく水をいれなければ。そうだ、水を飲めばなおるかもしれない。

立ちあがろうとした。右足が痛いかった。正確には、骨盤と右足のつけね。歩こうとする度、右足が骨盤に向けて、釘みたいに刺さり、欠けてしまいそうな痛さ。

とてもじゃないけど立って歩くことはできなかった。仕方なく、匍匐前進で進む。

僕が寝ていたところは、ほうけた草原になっていた。一mmぐらいの草が、ずっと生えている小さなスペースだった。

僕は少し進んで、自分が寝ていた跡をみる。そこにはやはり、誰かが仰向けだった跡が残っていた。と思った時、俄かに信じがたかったが、周りと同化したのである。つまり、草がさっきまでなかったところに草が生え、跡がなくなったのである。

この森は生命力に満ちている。そこで寝ていた僕は、今はどうみても欠陥人間だけれど、何か大きな力に巻き込まれているに違いない。

勇気づけられたのか、目の前の茂みに上半身を突っ込んだ。

身体は素っ裸。何の服も着ていない。もちろん下着もである。進むたびに葉っぱや枝が擦れたり刺さったりして、痛い。痛い。

水を探し求めている。河はあるのだろうか。川か、いや、河か。

茂みの中を進む音で、流れの音はめっきり聞こえない。がさがさがさがさ、そんな音しか聞こえない。

どれくらいまで進んだのか。振り返る。全く進んでいなかった。足先は、茂みにすら入っていない。

そうか。自分はこれほどにまで体力を失っていのかと絶望した。しかし、体力があった頃がいつのことなのか、それもわからない。

ここで一旦、自分の体調を確かめようと思った。胃の中は空っぽだ。横隔膜はまだ痙攣している。喉は乾いていない。けれど水は欲しい。皮膚は痛い、傷だらけ。目はちゃんと見えている、ような気がする。耳は正常だ。鼻は、あまりいい方ではないらしい。どこに向けたって、糞尿が散った臭いしか感じられない。髪の毛は生えている。ちょうどいいショートボブ。肩は凝っていないが、やたら斜めに突き出ている。そのせいで、肩が一番傷だらけになっている。腰は丈夫だ。匍匐前進も腰を中心に進めていける。足裏は感覚がない。何か刺さっていても気づかない。手首は回転する。柔らか過ぎる方だ。全く役立たない。対して指はあまり曲がらない。棒が十本、手のひらについているような感覚である。体の温度は正常、少し蒸し蒸しするぐらいである。外の気温は少し冷える。冬ではないが、夏の中旬ぐらいの感じ。しかし、風がひっきりなしに吹いている。

風の音と、水の音を勘違いしているかもしれない。僕が今向かっている先は、水の方ではなく、風の方である可能性もある。

僕の五感のうち、耳だけがマシであるため、変に違う音ばかりを拾ってきてしまっている可能性がある。ゴーっとという音、ビョーっという音。たまに、キャッキャという音も聞こえる。ああ、そういうえばそこには動物も混じっているのだった。僕はまだ、聞き分けのいい耳を持つことができていないのだった。

こうばっかり言ってはいられない。とにかく、起きたばかりの時に聞こえた、あの鹿の風の音に向かっていくしかない。

茂みを進む。どんどん進む。時刻は朝方から、十時頃になった。

鳥の声が聞こえる。ずいぶん遅い鳴き声。キョロッキョ、キョロッキョ、小さく鳴いている。たくさんいるはずなのに、一羽一羽、ひとりぼっちで鳴いている。

見上げると、木々の生い茂ったところに穴が空いていた。空をみた。青い空。

そこに、鷹のようなものの影。その後に、飛行機のようなものの影。そしてそこに残された、細長い腸のような雲。ああ、お腹が空いた。

周りには葉っぱと枝ばかり。木の実すら生えてはいない。何かを口に入れたい。口を開けて、何か入ってこないか待ってみる。風だ。風が入ってくるだけである。う〜んと思っていると、うっと、ハエのような飛来物が入ってきた。

思わず口を閉じてしまった。舌の方にいま、細かい足をひたすらに動かしている。どうしよう、少し考えた。このまま噛んでしまうか、飲み込むか。

吐き出すことはしない。食べたいから。でも、それがどんな味かはわからない。ちょっと勇気が必要だ。とりあえず、閉じたまま放置しておこう。

ぶんぶんぶん、口の中で音が鳴っている。自分の身体の中で音が聞こえる。外で茂みを進む音と、ハエの音。それが身体の膜を介して、鳴りあっている。次第に混ざり、一つの音楽を作ろうとしている。けれどこれじゃあ、まだ足りない。ベースの音にはなるにしても、そこには歌詞がない。まだまだ未熟だ、そう思い直し、僕はまた歩みを進めようとした。

すると、背中を誰かに掴まれた。皮膚がはち切れそうになった。けれど自分の身体も軽いからか、意外と浮いてしまった。やばい、食べられるのかもと思った。声を出さなくてはいけない。口内に飼っているハエとももうおさらばである。僕は惜しみながら、パッと口を開いた。

しかし、声はでなかった。声の出し方がわからなかった。心の声はこうして出ているのに、自分の肉声というのが聞こえてこなかった。

それほど大きくない誰かに運ばれている。下半身は動かせ動かすほど痛いから、上半身だけでも抵抗した。首をぶるぶるふったり、腕をぐるぐる回転させたり。でもその様は、すごく子どものようだったろう。抵抗できるはずの相手じゃないのに、抵抗しようとした、いやむしろ、無抵抗の表現だった。

僕は死を覚悟した。このまま、火に炙られて、おいしく食べられてしまうのかと思った。さっき目覚めたばかりなのに。

目覚める前に何をしていたのかは全く覚えていないのだが、その間、何度か夢を見た気がする。その一つが、今、僕の走馬灯として蘇ってくる。

明るい日の元。僕は赤ん坊。じっと、太陽の日差しに包まれながら、ぽてんと座っている。まんまる目をあけると眩しいから、細くして、その暖かさの正体をみつけようとしている。口はゆっくり、呼吸して、細く、静かに吐いていた。それだけの夢だった。

夢から覚めたら、そこは夢よりも柔らかい暖かさだった。水だ。水が流れている。
僕はその流れに放り出された。ちょっと乱暴過ぎないかとは思ったのだけれど、身体全身水を吸うことができた。至福だった。空っぽだった身体に、液体が満たされる。すべての器官が再起動し始めた気がした。

お礼を言おうと、捨てられた茂みをみる。そいつは、熊だった。でも優しい熊。僕を助けてくれたのだ。あまりにも飢えていた子どものようだったから。

母熊は、僕をじっと眺め、そこから何をするともなく四つん這いでいた。そうか、動物は二足歩行じゃないのか。極めて単純なことに気づく。そして現に今、僕は流れの底に足をついている。腰の痛みもない。

僕は立ち上がることができていた。静かな流れの中で、上半身だけを出して。

日の光が照ってきた。光の正体が分かった気がした。けれどそれを言うにはまだ早い。