【長編】冒険の神話(3)
階段はやけに砂こけていた。足には砂がこびりついている。自分はここで、足裏の感覚を取り戻しつつあった。
次第に昼の匂いが香ってきた。壁には植物の蔦が這い始める。地上に近づいている。光が差し込んでくる。
気づくと、地上に出ていた。光がほとんど出ていなかった。
薄暗い。雲に隠れているわけではない。そこでは、太陽が光を失っていた。月の方が明るい世界。ここではおそらく、夜が本当の世界なのだ。
廃墟ビルが立ち並ぶ。そこには、マントをつけた子どもたちが遊びはしゃいでいる。親のような人々はいない。
それぞれのマントには特徴があり、それが子どもたちの個性だった。首に前に結んで、ひらひらしているマント。破けているところがあったり、クレヨンで色をつけているものもいた。
子どもの表情や身体には個性がなかった。性別もない。髪の毛も生えていない。皆、全て坊主である。髪の毛一本すら生えていない。元から生えないのだろう。目の色も同じ。そのほかの顔のパーツも全部一緒。マントが外れてしまえば、誰が誰だかわからなくなるような子どもたち。
彼らは瓦礫の段差を飛び移ったり、石を拾って投げ合ったり、それらを積み立てては崩したりして遊んでいる。彼らは終始笑顔だった。
けれど声は出ない。代わりにマントが嬉しそうに笑い、靡いていた。それを見ている僕にも、充分気持ちが伝わってくる。
声を出せないという点で、僕と彼らは似ている。けれど僕には髪の毛が生えているから、彼らとは違うのだろう。
寂しい気持ちを抱えながら、とにかく彼らとコミュニケーションを取ってみようと思った。
ある子どもが、ビルの片隅に座っていた。僕も声は出ないから、身振りでこんにちはと手を振った。子どもは警戒しているようだった。かといってそこから立ち退こうともしない。
他の子どもは相変わらず遊んでいたが、僕とこの子を横目で意識してはいる。
彼は他の子どもたちとは遊ばない。除け者にされている。だから、今こうして視線を浴びているのだろう。
僕は身振りが怖かったのかもしれないと思い、代わりに、地面に絵を描くことにした。絵なんていつぶりに描くのかわからなかったが、試しに、トラの絵を描いてみた。猫との違いをつけるために、縦縞と牙をはっきり加えて。
それでもその子は近寄らなかった。どうしたものかと、一度そこから離れてみる。しばらく様子を伺った。するとその子は、ゆっくりその絵を見に来る。
ここからしばらく、絵だけのやりとりが続いた。会話とは言えないかもしれないが、絵しりとり、というわけでもない。そこには、お互いのことを知ろうとする気持ちが靡いていた。
僕がトラを描いた後、相手はウサギを描いた。僕は次にニンジン。そしたら相手は人を描いた。次は銃。その次は森。次は家。そこで止まった。
こうしているうちに、僕とその子との距離はすっかり近くなり、目と目が会う近さで、お互いにしゃがみ込んでいた。
その子のマントは、縦にちぎれていた。ちょうど、三対一に分かれている。裂けて解れている糸が、マントをもっと貧相にしていた。このままだと全部が解けて、無くなってしまう。そしたらこの子の個性がなくなってしまう。
僕は縫ってあげようと思った。きっとあの船員たちなら、袋に持っているに違いない。
しかし、船員たちはどこへいったのか。地上に出てからすっかり忘れていた。背丈は子どもたちと同じくらいだが、鼻がでかいからすぐわかるだろう。そうたかを括っていた。
けれど見つけられないのである。薄暗いせいもあってか、遠くの方まで目で見てやれない。ぼやけてしまう。
参ってしまった。どうすれば見つけられるか。とりあえず、見渡しのいい場所だ。
子どものところに戻って、場所を聞いた。すると、手を差し出してくれた。
僕は手を引かれながら、どこかへ向かっている。見渡すと、本当にこの街には子どもしかいない。よく見れば、遊んでいる子だけではなかった。薪を背負っている子、草を積んでいる子、動物を担いで帰ってきている子。彼らはちゃんと、自分たちだけで生活をしている。
僕が案内されたのは、小さなテントのようなところだった。
高いところに行きたかったのだけど、まあいい、そのテントをくぐる。すると、一つの水晶玉が、小さい布団の上に置かれていた。
玉は汚かった。埃まみれだった。誰かが触った跡がくっきり指紋になっている。だけれど、うっすら見えるガラス部分に、確かな力を感じた。
僕はその汚れを肘で拭って、多少なりともマシな風に整える。するとそこには、あの鼻だけの船員が見えるではないか。この水晶は、僕の願いをうつしてくれていた。
僕はその子にお礼を言おうと、テントを出た。しかしもういなかった。また会える。そう思い直し、さっき見えた映像から、あの船員たちの場所を推測した。
背後に映っていたのは、天辺が三角形のビルである。彼らは今、あそこあたりにいるはずだ。
ビル一帯を見渡す。四角形ばかりの屋根のうち、一つだけ、三角形が見えた。
僕は彼らに再会した。彼らは僕がいなくなって不安だったように、少し涙ぐんでいた。どっちからいなくなったのか、そのことを確かめようとは思わなかった。僕は今、裁縫道具を求めているのだった。
しかし、ここで決定的なことに気づく。僕は彼らとの言葉を持たないのである。彼と会話したことが一度もないのであった。
僕は彼らの船に乗ったが、それは向こうが手を差し伸べたからだし、彼らは僕についてきたが、それは向こうが勝手にそうしてきたからだ。
どの状況においても、お互いが勝手に行動したことであって、やりとりというものが成立したことがなかったのである。
僕は絶望した。さっきみたいに、絵を描いても通じるようには思えない。急に遊んでふざけたやつにしか思われないだろう。けれどきっと、あの手持ち袋に、裁縫道具が入っているのだ。
僕は自分の体格さを利用し、力づくで押し倒した。悪いことをしたと思う。けれど今は、裁縫道具が欲しいのだ。袋を取り上げ、中身を覗こうとする。
彼らも流石に怒った。僕の身体の表と裏にくっついて、噛み付いたり、足で蹴ったりした。
僕はそれでも袋の中に手を入れてみたが、何個かものは入っているものの、どれが裁縫箱かは見当がつかない。ゆっくりしたところで広げてみなくてはいけない。
僕は彼らの背中を掴んで、投げ出した。彼らは自分の鼻だけは護るようにして、背中から地面に落ちた。
やり過ぎた気持ちが残る中、僕は駆け出す。彼らの足じゃ、自分の足には到底追いつかないことはわかっていた。
言葉が通じないと、どうしても争いになってしまう。走りながら、後ろを振り返ることはしなかった。
ビルの間をすり抜けていき、選んだのは窓のついたビルだった。玄関らしきところに入っても、誰も住んでいるような気配はない。
そこにいると、不思議と落ち着いた。ここは、四階建てのビル。一階はエントランスのようになっていて、受付口があった。枯れた植木が何個か並び、ソファが半分無くなった状態で転がっている。
エスカレーターもあったようだけれど、もちろん動いていない。階段で、他の部屋の様子も見て回った。
月が出てきたのか、薄暗かったのがどんどん明るくなっていく。染みたマットが敷かれたベットの上で、僕はようやく腰を下ろす。そして、袋の底を摘んで揺らし、一気に物を出していった。
埃とともに現れたのは、さっきのロープと、水筒、裁縫道具、そして、骨を削ってできたお守りみたいな物だった。
他のものは置いておくとして、とにかく裁縫箱を手に入れた。これで、あの子のマントを縫うことができる。
ただ、もう疲れてしまった。今日は色々なことがありすぎた。自分がこんなに動いていい生物かもわからないのに、多くの移動を行なってしまった。だからちょっと、一休み。僕はそのまま、ベットの上で仰向けになった。
目が覚めた。子どもの声が聞こえる。いや、遊ぶ声はずっと聞こえていたのだった。けれども、改めて新鮮に聞こえてきた。遠かったり近かったりするところで、マントの靡く音。ハタハタと、喜んでいる音。子どもたちは声を出せないのではなく、声が必要なかったのだ。彼らの代弁者は、マントが担ってくれているのだから。
仰向けになったまま、窓から差し込んでくる月明かりを見た。模様がはっきりしている。あいつは、笑っていたのである。