1ルーム

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【長編】冒険の神話(7)

僕は死ななかった。海に、あの油の海に落ちていったのだ。あれほど遠かった海まで飛ばされたのだ。

落ちた時、衝撃はほとんど感じられなかった。むしろ、包んでくれる感じだったと言っていい。僕の落ちるところを、身構えて待ってくれていたように、海は僕の方を受け止めてくれたのである。

衝撃が弱かったのは、そこらじゅうに浮いている油のせいでもあるかもしれない。ネトネトした油。そこに頭から突っ込んだ僕は、顔中が油だらけだった。それは、泥だらけよりも嫌だった。

匂いはしなかった。海のあの潮の匂いは、どこにも香らなかった。

落ちた後、僕はすぐ浮いた。これもまた油のせいである。油は水を弾くから、油の層が、海全体を覆っているのである。もちろん、その下の層は、僕が前から知っていた海水なのではあるが。

先ほどまで一生を終えると思っていた人間に、しばらく身体を動かす気力は湧かない。僕はじーっと、今生きている偶然を皮膚で感じ取っていた。そして、そこにまとわりついたり、離れたりする油も一緒に。

そういえばと、果物のことを思い出した。右手を見る。ちゃんと握っていた。よかった。けれど、こいつを手に入れるのにこうまでする必要があったのか、今になってはわからないのだけれど、まあそんなことはどうでもいい。果物も油でベトベトである。まだ一日経っていないから、赤色にはなってないはずだ。早いうちに、岸に上がって、よく洗って齧りつきたい。

そうと決まれば、人間単純なものである。岸がどこにあるかを確かめ始める。いくら飛ばされたとはいえ、全くの海の向こうということはないだろう。

首をキョロキョロしていると、案の定、岸は泳いで行ける距離にあった。

 

なんとか泳ぎ着く。自分は泳ぎ方を知っていたので不思議であった。腰をつかえばなんとかなった。身体を上下に揺らして、足を一本のようにする。そして、両手は伸ばしてこれもまた一本のようにする。ちょうど、魚のようなイメージである。そういう泳ぎ方で、くねくねくねくね辿り着いた。

岸に着くと、またバタッと仰向けになった。疲れた。体力はまだ残っている。しかし、精神的に疲労が溜まっていた。しばらく太陽の元で、日光浴でもしよう。太陽は光を失ってはいるが、紫外線は相変わらず発している。

油のついた皮膚が、ペリペリと乾燥していく。油の膜は乾燥して、皮膚から分離し出した。そして次第に、一枚一枚、剥がすことができるようになっていった。

全部を剥がし終わった時、なんだか肌がツルツルになった気がした。油も悪いだけじゃない。

 

日差しがきつかった。光はないのだが、紫外線が強かった。瞼を閉じても、太陽の輪郭は真っ黒に浮かんでいる。

のそっと、身体を起こし、手と足を地面につけ、その浜の感触を確かめる。

この浜は、とても細かい砂でできていた。そのためか、手足にはくっつかないのである。ぎゅっと押しつけても、パラパラこぼれ離れていく。戻っていく。

歩くと、キュッキュと音がした。気持ちよかった。痒いところを掃除してあげている気分になった。

それからさらに浜沿いを進んでいく。しばらくすると、前に見た岬の岩壁に辿り着いた。

岩壁には大きな穴が空いており、油の波で周りは黒ずんでいた。その黒い部分には、カニがウヨウヨ横ばいになっている。油を食べるのだろうか。泡をぶくぶくさせて、集団でかたまっている。

この岩壁の近くに、船があったはずだ。辺りを見回したが、姿は見当たらない。しかし、足元に木の破片があった。きっとこれはあの船に違いない。もしかしたら、ここで座礁したのかも。

そう思い、もう少し探索することにした。黒ずんだ穴のところまでは、岩の壁を伝っていくことができた。

その奥に、小さな浜が出来上がっている。そのプライベートな感じのするところに、あの船があった。

僕は隠れながら、その船に近づいていく。油のせいか、海の音は全くしない。だから、砂の足音だけを鳴らさないよう、ゆっくり歩いた。すり足は得意である。

船の側面まで行くと、奥に小さな洞窟があることに気づいた。そこに火を消した木組みの跡がある。やっぱりまだこのあたりにいるのだろう。いつ座礁したのか知らないが、すぐ立ち退く気配はない。

ただその姿は見えないから、どこか食料でも探しにいったのかもしれない。安心した僕は、その洞窟の方に足を運ぶ。

みると、包丁があるではないか。しめたと思い、手に持っていた果物を見る。まずはこのドロドロを洗いたい。

近くに海水が流れ込んでいるところがあったので、そこで洗った。油とこの果物の相性がいいのか、なかなか取りずらかった。拭っても多少は取れるが、それでも伸びてしまって、色が黒くなっていくようだった。

いくらやっても埒があかないようだったので、諦めて包丁のある場所へ。

すると、あの船員と同じ鼻を持った者たちと鉢合わせた。三人だった。

僕はたじろいだ。しかし待て。僕は向こうを知らないし、向こうもこちらを知らない。なら、別に警戒する必要はないのではないか。あいつの仲間だからといって、どうやって情報交換するのだ。落ち着きを装った。

彼らは、前の二人と同じ言葉で、ゴニョゴニョ話している。こちらを襲ってくる気配はない。だけれど、歓迎している様子でもない。僕はいいことを考えた。

この果物を分け与えよう。そうすれば、こいつはいいやつだ、だから大丈夫だ、となるに違いない。

僕は彼らの足元にある包丁へズカズカと向かって、包丁を取り、びびる彼らをよそに、果物を四等分にした。皮は固かったが、包丁を入れるとその通りに切れた。

切って開くと、たちまちその空間にいい香りが広がった。粉のようなものが吹き出し、少し眠気のするような心地になったぐらいである。僕はとんでもないものを手に入れてしまったのだと思い、中身も黄色の果実を手のひらにのせた。

そのうち三つは、彼らの分である。僕は、一つずつ摘んで彼らに手渡していき、彼らはそれでもまだ不審そうにしていた。

彼らはまだ食べない様子だから、僕は苦労して手に入れたことなど忘れたかのように頬張る。
味は、りんごのようだった。見た目はみかんのようだったが、食感は完全なりんご。味もりんごの新鮮さがあるのだけれど、風味としてはぶとうが混じっている。そうか。この果物には、僕の知っている果物全部が詰まっているのか。この果物は、すべての果物の起源だったんだ。僕はそう思いながら、苦労して取った甲斐があったと感じた。

平気で食べている僕の様子を見て、彼らも安心したのだろう。右のやつは一口で、真ん中のやつは半分だけ、左のやつは細かくバラして食べた。

いたく感動したようだ。こんなの食べたことないという顔をしていた。目がうるうるして、僕の方に握手を求めてきた。僕は喜んで握手をし返す。僕はけれど、既に彼らの異変に気がついていた。

左のやつは、耳が少し変形していた。上のあたりが尖って、だんだんと長くなっているような気がした。

真ん中のやつはまつ毛がどんどん長くなって、そりかえっていく。

右のやつは、腕から毛がもっさもっさと生えてきていて、その濃さを増していっていた。

彼らはみな、その果物を平らげると口々に、感動する言葉を投げかけあっていた。ただそうして楽しんでいるのも束の間だった。

彼らの姿は、みるみる動物に変身していく。耳の異変のあったやつはウサギに、まつ毛の異変のあったやつはシカに、毛に異変のあったやつはイノシシになった。

決して一緒に居合わせない動物たちが、互いに驚き鳴き声をあげた。

一方僕は変身しなかった。その理由は単純。僕は、その果物の味がわかったからである。

彼らはしばらく、その場でジタバタしていたが、動物になったために、落ち着くのは時間の問題だった。しかし、まだ人間としての脳が残っているようで、今回の事件の犯人を探す思考になったらしい。三匹が、僕の方を見たのだった。

僕は慌てて、彼らが上がってこれない場所を探した。船だ。船の上なら大丈夫だ。僕はぎゅっと、踵を踏み込み、船の方まで走った。

その勢いのまま、船の先を掴み、一気に身体を押し上げた。振り返ると、すぐそばまで三匹は来ていたが、乗り込んでくることはなかった。足が短かったからだ。

僕は彼らが立ち去るまで息をついた。時々顔を出してみては、彼らがそこにるか確認した。その場にいなくとも、まだどこかに隠れて待ち伏せしていないかどうか、そこまで確認した。そして完全に気配がなくなった時、僕はようやく、船の中に目を向けた。