【長編】冒険の神話(12)
静かになった。牛がモーッと鳴いた。星がきらっと輝いた。
おじいさんは、ちょこんとそこに座っている。多くのことが起き過ぎたせいか、しばらくぼーっとしている。
今度は、馬が鳴いた。おじいさんは、向かい斜めの方をみる。馬は涎を垂らし、ぎょろっとおじいさんの方を見つめる。おじいさんは焦点の合わない目にビビり、隣のスペースに逸らした。
そこにいた。鹿が。そこには、おじいさんの鹿がいたのである。
おじいさんは涙をポロポロ流した。悪いことばかりあった日に、唯一いいことがあったからだ。
おじいさんは、その鹿の名前を呼んだ。ちゃんと応えてくれた。
今すぐそばに行きたいと思った。でも、縄が硬くて出れない。なんとか引っ張っても、それは難しかった。
朝になり、鳥の鳴き声が聞こえた。おじいいさんはあれから何度もロープを外そうと試みたが、結局疲れてしまい、そのまま寝ていたのだった。
小屋を開ける音が聞こえる。小びとたちだ。餌やりの時間だという。
馬にはニンジンを、牛には草を、鹿にはじゃがいもを、そしておじいさんには、パンをあげた。
お腹が空いていたおじいさんは、そのパンをもらってすぐ、一口で食べてしまった。喉を詰まらせそうになったので、急いで小びとからバケツをもらい、一気にお腹まで流し込んだ。
小びとは次に、箒をもって床掃除を始めた。廊下は藁と糞尿が混じったものでぐちゃぐちゃしていたので、箒で大きな塊を剥いでから、ブラシでゴシゴシと擦った。立ち上る臭いに、おじいさんは鼻をつまみ、耐えていた。
それから、午前中は何事もなく過ぎていったが、問題は午後からだった。
少し体格の大きい小びとが、ズカズカと入ってくる。そして、おじいさんの隣にいた牛の正面に立ち、ロープを外した。そして、そのままその先を握り、外に連れていった。おじいさんは不安な表情を浮かべた。
牛は小屋のすぐ後ろに連れて行かれ、先ほどまで鳴き声など一つも上げなかったのに、急に鳴き出すようになる。何人かに押さえつけられ、牛の首元をグッと抑え込まれた。鳴き声はやみ、もう同じ声を聞くことは無くなった。屠殺されたのである。
おじいさんは恐怖に慄いた。次にいつ、自分の出番が来るかわからない。自分もあんなふうに殺されるのかと思うと、いても立ってもいられない。ロープを外そうと一生懸命になったが、やはりダメだった。
おじいさんは、鹿の方をチラッと見やった。
じゃあ、鹿は殺されてもいいのか。おじいさんはそう考えた。もし次に、鹿が殺されるなら、自分は名乗り出ることができるのだろうか。
これまでずっと一緒に過ごしてきた鹿である。だから、いなくなってしまうのは寂しい。しかし、その代わり命を曝け出すとは、今の時点では考えられなかった。
自分の判断におじいさんは落ち込んだ。足元の藁を掴んで、千切ったり、投げたりする。それが口に入って、咳き込む。
先ほどの牛の血の匂いが漂ってきた。一連の処置が完了したらしい。
するとまた、あの小びとが入ってきたではないか。
おじいさんは血の気が引いた。その小びとは目の前に、おじいさんの前に立っている。そして今にも、ロープを外すところだったのだ。
おじいさんは小びとにすがりついた。
おじいさんは首を振り続け、殺されたくない、殺されたくないとアピールした。でも相手は小びとである。そんな挙動を取る者を相手にするわけがなかった。
小びとは握り拳一発、おじいさんの頭に打ちつけた。おじいさんはくらっとして、そのまま引き摺られていく。
小屋の裏には、まだ血生臭い匂いが残り、血の跡が散らばっていた。緑の草原に散らばる赤い雫。あの牛の血だ。
おじいさんは石台の上に投げ出され、両手足を四方向に縛り付け、身動きが取れなくなった。
そしてその小びとは、一度小屋に戻り、あの鹿も連れ出してきた。
一度に二匹、やるつもりなのである。
おじいさんは必死でもがいた。その鹿が縄で括り付けられ、自分と同じように縛られるまでに、なんとか抜け出そうとした。
なんとか、紐が緩んだ。
おじいさんは慎重だった。もう紐は抜けかけていて、いつでもここから飛び出せる。しかし、タイミングを誤ってしまうと、周りから簡単に捕まってしまうだろう。油断させなくてはいけない。油断した隙に、一気に飛び出してしまわなくてはいけない。
鹿がいよいよ縛り付けられてしまった。小びとたちは、大きな包丁と、タオル、水瓶を用意する。
どうしたものかどうしたものかと、おじいいさんは考えた。どう油断させれば良いのか、考えた。慌ててはダメだ。その時はきっと来るはずだ。
鹿が暴れ出した。これまで温厚だったのを裏切るように、身体をこれでもかと拗らせていた。首も足もひん曲がるぐらいにしてまで。
小びとたちは一斉に、鹿を見た。視線が鹿に集まった。誰も、おじいさんのことを見ていなかった。
おじいさんは手足をギュッと引いて、背中を梃子に勢いよく飛び出した。周りの小びとは捉えようとしたが、すんでのところで背中を掠めるだけだった。
いける。おじいさんは思った。このまま、あの川の方まで走ってしまえば、逃げ切れると思えた。家畜は他にいくらでもいる。自分一人が、そこまでの価値を持ってはないことぐらいわかる。
草原から、森に入ろうとした。小びとは後ろから追っかけてくる。おじいさんは迷っていた。今更ながらに、あの鹿のことを思い出してしまった。
あの鹿はもしかすれば、自分のために暴れてくれたのではなかったか。自分が犠牲になってでも、主人である自分を守ってくれたのではなかろうか。
一度そう思うと、そう考えなくてはならない責務を感じた。そして、これまで一緒に暮らしてきた責任が重くのしかかってきた。
鹿の方を見ると、先ほどの暴れた様子とは真反対に、静かに落ち着いていた。死ぬのを覚悟して、優しい瞳で、おじいさんの方を見ていた。
おじいさんはハッとした。何を迷っているのだと。自分は生かされた命なのだ。あの鹿の分まで、自分は生きなければならないのだ。お前とのひと時と、最後の覚悟、それは一生忘れない。
おじいさんは、そのまま小びとに捕まった。抵抗もしなかった。
その身体はすぐさま石台に戻され、縛り付けられると同時に、すぐに首を切られた。おじいさんの顔は、あの覚悟の時から一度も変わらなかった。思考が止まったのである。そしてそれは、気持ちが止まってしまったからである。
矢を放ったのだ。ここまで観察してきた僕が、おじいさんの迷いを断つべく、弓矢を放ったのである。
僕には、おじいさんが不正直に思えたのだ。僕にとって、鹿の命より、おじいさんの命の方が優れているとは思わない。どちらも同様の価値を持っている。それなのにおじいいさんは、最後の最後で、自分の命が優位に立ったと思ったのである。自分で、自分の命を判断したのである。それを、これからの責任を負うという形で、一旦片付けたかのような思考を振る舞ったのである。
だから矢を打った。
そうして結果的に、おじいさんも殺され、鹿も殺された。そしてその晩、小びとのおいしい夕食になったのである。
小びとはその点、命に感謝する生き物である。鹿は頭の脳みそまでしっかりくり取られ食されていたし、おじいさんもその目の玉まで胃袋に収められた。
皮の方は、両者とも小屋の後ろで天日干しされ、小びとたちが着るための布になっていった。
僕の仕事は、悩んでいる生き物に、覚悟の是非を下すことである。それは、弓矢を心臓に射ることで決定される。
心臓を刺されたものは、僕がその矢に込めた思いの通りに、動くことになる。
しかし、僕も同じ命を持っている。同等の価値を持っている。だから、その者たちを所構わず射って、支配しようとは思わない。その者たちが、しかるべく迷いに陥った時、その流れを自然に落ち着けるよう、そのタイミングのみに、矢を放つのである。
今回は、食べられるということが自然の流れだった。捕まえられ、家畜小屋に入れられた時点で、その方向性はじわりと始まっていたのである。
僕は、それだからといってすぐ矢を放つことはしなかった。その生き物の生き様を、ギリギリまで見定めること。これも、僕の仕事の重要なポイントなのである。
その夜は、僕も楽しくその国を眺めた。