【短話】寺山修司
公務員として働いてもう三年になる。机の下にはいつも寺山修司を忍ばせ、仕事の合間にちらっとページをめくることにも慣れた。
もう四月で、年度が切り替わる時期に来ている。同時に、仕事を辞める人にとっての時期でもある。
その人が退職するということで、一人ずつお金を集める。合計で十万ぐらいになったそうだ。
額を聞いたのは、仕事を終えた彼との帰り道だった。彼はその十万円で、たらふくラーメン屋に行くという。
とても笑顔だった。羨ましかった。目標がある、それくらいの些細な目標が、確かなものだと感じた。
途中で別れ、蕎麦屋に行く。店員はいつも女子大生のアルバイト。席に案内され、閉めた扉の向こうから、バイクの音が聞こえた。
その蕎麦屋は古く、キッチンの向こうに事務所の部屋が見えていた。
一月から数えて、何百人来たんだろう。メニューを眺めながら水を啜る。
進路。そんな言葉が浮かんできた。
大学三年生から、そればかり考えていた。自分の才能ってなんなのか。あの頃はラーメン屋ばっかり行ってたっけな。
かけそばを頼んで、バックからいつもの寺山修司を取り出す。彼の文章は、どこから出てきたのかわからないごちゃ混ぜ感がする。それでいてシンプル。まるでかけそばだ。
店主が嫁に声をかける。「電話のやつ、行ってくれる?」
蕎麦の出前に行くらしい。そういえば、ラーメンの出前って、時間経つけど美味しいのかな。
ページをめくりながら、壁のメニューをみる。端っこに、「そばラーメン。」
あんなのあったっけ。紙の部分だけ新しい。新メニューだ。新しい集客を狙ってのことだろうか。お店の雰囲気を、脱マンネリするためか。
夜はもう七時。かけそばがやってくる。自分の前の席には背中が見え、スマホで映画を見ながら啜っている。
映像にはレコードが回っていた。棚にはレコード盤がたくさん収められており、その一つを取り出しては、宝物のように誰かへ説明している。
その男の歳は二十六歳。寺山修司ではないな、と思った。
かけそばをいただく。今日もうまい。きっと、毎日食べても美味いんだろう。
帰ったら四畳半。でも僕が理想とするのは、このテーブルぐらいの広さなんだ。四畳半すら贅沢すぎる。
店主はカウンターであくせく仕事をしていた。お客さんは僕とあの人二人なのに。
蕎麦屋はよく行くが、喫茶店には行ったことがない。新聞が置いてあるお店がどうも苦手なのである。最近また近くにオープンしたらしく、前を通ればとても暇そうにしているが、まあ行ってやらない。夜中の二時に空いてれば、まあ考えてもいい。
お金はある。月々にもらえる給料も、前に上がった。このまま年数を稼げば、少しずつ上がっていく。規定にそう書いてある。
外食も増えていくだろう。家で作るのは面倒だ。コンビニ飯も増えていくだろう。
ああ、あの駅の立ち食い蕎麦屋行ったことないな。うどん屋も行きたいところあったな。
手元の麺が伸びてしまう。ささっと食べた。レジ、支払い。「今日も美味しかったです。」と、ボランティアの気持ちで添える。
店を出た。ゴールデン街の面影のないシャッター街を歩いて帰る。
信号で待っていると、隣から酒飲みがふらついてくる。一人言を言っているが、言葉が変だ。
見えない誰かと喧嘩しているらしい。文句を言っていた。拾えた情報はわずかだったが、嫁のことだった。
僕も結婚ぐらいしてみたかった。そこまでの話にならず、別れてしまった。
彼女は同い年で、妹がいた。
彼女とは幼なじみ。二十三年間交流がなかったのが、偶然出会った。
同棲を始めてから、僕の生活に問題があったのかもしれない。休みの日はずっと家で過ごしたかったから、どこかに出かけようとする彼女からすれば、不満だったのかもしれない。
経済的には十分一緒に生活していけるのだったけど、やっぱり、お互いが持っている社会というのがあって。それがうまく結びつかないといけない。
居酒屋を通り過ぎる。赤く寂しく光る。
ガラス扉から、お客さんの怒声が聞こえた。いや、怒っているんじゃない。盛り上がっているんだろう。一人が元気に発言して、周りがわちゃわちゃなだれている。
ああいうライフスタイルは無理だな。
このお店には一度も入ったことがない。
掲げてある旗には、ラーメンの文字。そんなにみんな、ラーメン好きなのか。餃子とビールにすればいいのに。
一人暮らしに戻ってから、年収のことばかり気にする。別に安定しているし、もっと稼ぎたいとも思わない。しかし、その数値が、自分の器を表している気がする。
家に帰り、水道水を飲む。味がわからない。鉄分の味はする。けれど、水の味はわからない。
天井からドーンと音がした。五〇過ぎのおっさんだろう。
彼も一人だな。
バックを漁る。
寺山修司の本がなかった。
バックの中を覗く。
やはりそこには、寺山修司はいなかった。