1ルーム

色々な1ルームを作って、シリーズ投稿しています。

【短話】お産

山奥に潜むおうち。食器が揺れる音がする。
私はそこに住んでいた。住んでいたというのは、もうだいぶ前の記憶だから。
子どもを産んだんだと思う。それくらい曖昧な記憶。
私は確か、庭に寝転がっていて、草をテキトーにむしっていたと思う。手のひらにくっつく草の感触が好きで。
そこではお父さんが百姓だった。いつも大きな声で怖かったし、きょうだいもいなかったから、音が飛んでくるのは私だけだった。

 

でも今こうして、本当の弟に話しかけてるのよね。すごく歳が離れてるから、全然今でも不思議な感じ。
さっき、記憶が曖昧って言ったけど、本当のところ思い出せることもあって。部屋の中にね、たくさんの古着が吊るしてあったの。たくさん。
そのなんだかわからない過剰さを見ながら、命ってこういうカタチなのかなと思ったのよね。きっと、子宮の内側のヒダなんでしょう。
その部屋から、子どもが生まれた。すごくおとなしい子で。全然泣かなかった。
でも臍の緒が硬くって滑ってね。切るのに一時間ぐらいかかったそうよ。
私はその時気を失ってたから分からないんだけど。起きた時には、首に縄がぐるぐる巻いてある感覚がしたな。力みすぎて、首に力入っちゃうのよ。
ただ赤ちゃんの鳴き声は聞こえて、その時にね、このおうちが、あなたのふるさとになるのかって思った。古い古い、記憶になっていくんだなぁって。
だんだん思い出してきたんだけど、よくあんな小さな穴から、人が出てくるわよね。普通に考えたら、手足ボキボキで出てきそうなぐらい狭いのに。
意識がはっきりしてからね、ようやく目が開くようになってきたんだけど、赤ちゃんと父がいなかったんだよね。ちょっと慌てて。その時ね、二人とも、新しい古着になって吊るされちゃったのかと思った。

 

おーい、おーいって呼んだ。古着が揺れる。風が吹いたのか。
唐突に、嘆きみたいなのが、喉から湧いてきた。
それでまた記憶を失う。起きたら病院。東京の方。
そういえば、東京で結婚した。二十代前半。ずっと若くて、頭も冴えていた。
夫との関係は、いわゆるラブラブカップルではなかったけれど、まあ幸せだった。
夫は台所が合っている人で、なんでもできるというか、材料があれば、チャチャっと料理を作ってしまえる。ちょっと待っててねって言って、すぐ拵えてくれる。
私の方はというと、私は一生懸命働いていて、お布団に入ることすら面倒な生活。

 

夫はよくついてくれていたと思う。力強いというか、優しいよね。
ただ夫はね、あんまり働けない人で、アルバイトやってたね。でも彼なりに働きたいところがあって、なんか、作家さんのアシスタント?。自分で門を叩いて、そこで働かせてもらってたらしい。
対して私は厳しかったよね。彼に何度言ったことか。ちゃんと働かないの。なんで。なんでって。
そうやって、関係性を切り裂いちゃったのって私なのよね。切っても切れないものだと思ってたからさ。
正直まあ余裕なかったのよ。家帰ったら、疲れたから寝る、よ。テーブルに晩御飯置いてあるのが見えてもよ。
私は本当に支えられてきたと思うし、台所に入れるような人間じゃないのよ。
でも、血が出てきたのは台所だったのよね。手を洗ってただけなんだけど。
その時、子育てかと思った。遠く、暗闇が奥の奥までずっと進んで終わらない、みたいな感覚に陥った。
こういう時に限って、家族って集まるのよね。そりゃ孫ができるのは嬉しいのだろうけど。家族全員で支えましょうねって、言われたなぁ。あの時はお母さんもいたっけな。
それで、もういよいよってなっていくに従って、私すごく小さくなっていくの。身体が弱っていって。何にも食べたくなくなって。そういうのって、普通出産後じゃない。でも、違うのよ。私、なんかもう産んだ気になってたみたいで。
それで、あの小さなおうちで療養することにしたのね。空気がいいからあそこ。田舎臭いけど、子どもが生まれて仕事復帰できるぐらいの頃に戻ればいいと思ってた。
でもね、戻れなかったのよ。さっき東京の病院に行ったって言ったけど、退院後も相変わらず弱ってたから、またあのおうちに移ることになったの。私は本当に元気がなくなっていて、夫の判断だった。
幸せなお産。そういうのって本当なのかしら。お産の時は苦しいよね。でも、その前後も普通に苦しいよ。
夫もそういうところがあったけど、どうも産むだけだと思ってるらしいのよね。でも、そうじゃないのよ。産むって、私の身体がやることでしょう。私の意識とはズレちゃうのよ、どうしても。それまでバリバリ働いていた私にとって、それがどれくらいの錘だと思ったか。

でも、生まれた子どもはもちろん大事にしてるわよ。名前もつけました。女の子です。
歩き始めるのが遅い子だけど、そんな心配なんて勝手。すぐ歩き始めました。
ありがたいなと思いました。みんな、実は応援してくれてたんだなって。

 

結婚式の時、そんな言葉すら言えなかったからね。本当、親知らずっていうか。
それから二、三年はそこで暮らして。夫は父の農作業ずっと手伝ってたね。声が小さいのに、よくあんな声の大きい人と一緒にいたもんだ。
ただそれがストレスだったのね。ようやく東京に戻ってくると、離婚しようって切り出されて。しんどかったみたい。
私は反対した。子育てしなきゃいけないのに、お金の問題ね。
それでも彼は頑なに、どこかを見ながら、誰かに怯えながら、じっと私の足元を見て怒っていた。睨んでいた。
小さい声なのに、振動が私のお腹に響いた。空っぽのお腹に。

 

 

じっとする。天井を見る。この店内には何もない。何も吊るされていない。
彼は今頃、通勤しているのかしら。窓に過ぎる電車を見る。
たくさんの首輪が吊るされていた。一緒の方向に揺れて。誰も握ろうとしない。だって汚いから。誰かが触ってるんだから。
前を見る。そこには弟がいた。
私の長い話をずっと聞いてくれていた。嘘みたいな私の話を、嘘とかほんとじゃなく、本当に聞いてくれていた。
お客さんが入ってくる。注文の音がなる。
あ、コーヒーおかわりしていい?
ボタンを押す。
コーヒー、アイスコーヒー。
僕はいらないです。
カランコロン。氷の入った茶色の液体。
お腹に流し込む。
お腹がぷるっと喜ぶ。
液体に光が映る。
照明がたくさん集まる。
見上げると、そこは部屋だった。
たくさんの光が吊るされて。
明るい首だけが並んでいた。