【短話】イヤホン-「午後五時なのに、夜みたいに暗かった。」
僕は自分の足を溝に突っ込んでしまう。
ふらっと歩いているからではある。
けれど毎日、入ってしまう。
雨の日なんて最悪だ。ドブが流れているところに、右足を突っ込んでしまう。
その癖というか、衝動というか、そういうものが出てきたのは、ちょうど退職してからだった。
別に会社がブラックだったわけじゃない。ただ、このままずっとは続けられないなと思った。
だから、言ってしまえば続けられたわけではあるけれど、そこで僕は、これまた衝動で、続けないことを選んでしまった。
こうして、自分の衝動が、片足を突っ込んでしまう、という行動として現れ始めたのである。
おかげさまで、玄関に置いてある靴は片方のみが茶色くなっている。ほとんどスニーカーで、紐の先端までびっしり茶色。黒ずんでいるものまである。でも、買い換えることはない。お金がないから、当たり前だ。
今日も外に出かける。雨だ。嫌な予感がする。
ため息をついて、傘をさしてドアを開ける。そうしないと濡れてしまうから。
まだ午後五時なのに、夜みたいに暗かった。街灯がついている。
ぽつぽつぽつ。雨が当たる音。
雨は嫌いじゃない。
でも、ほうら、あの道だ。溝が、小さなドブ川が流れている。
ああ、もうすぐ、あの道に入ってしまう。
ああ、どうしよう。
すると、反対側から赤い傘がみえた。
顔は隠れているが、女性のようだった。
コツコツと、ハイヒールを履いている訳でもないのに音がする。
僕は右側。彼女は左側。
あまり見かけない人だった。
人と言っても、顔は見えないのだけど。
気にかかって、左を見ながら歩いていた。傘できっと見えてないことを理由に、結構ガン見していたと思う。
するとどうだ。気づけばその道を過ぎていた。
右足を見た。
濡れていない。
驚いた。
僕は、片足を突っ込まずに済んだ。
慌てて、彼女の方を見る。
角を曲がろうとしている。
待って。
僕の前に彼女がいる。
相変わらず顔は見えないけれど、僕の方を向いていることはわかる。
沈黙。それはそうだ。声をかける理由なんてないから。
いやある。僕にとってはあるから今立っている。
あの、すいません。ありがとうございました。
正直に話した。
一方的に話した。
自分が退職して、溝に突っ込んでしまう癖ができたことまで。
彼女は笑った。傘からほんの少し見える口元。そう見えた。
彼女は去って行く。何も言わずに歩いて行ってしまう。
彼女が向こうへ回る時、傘が浮いた。その後ろ頭が見えた。
耳にイヤホンをつけていた。
だから、僕の話なんて何も聞こえていなかった。
だったら、あの口元はなんだったのか。
僕を馬鹿にしたのか。それとも共感したのか。
ボーッ立つ僕。
離れていく彼女。
みると、彼女の左足は茶色に濡れていた。